『世界が壊れた日』












 死体があった。
 厳格で、厳しくて、不器用で、時折優しい…そんな、父親の死体。
 死んだという事も分からないままに死んだのだろう。
 開かれた瞳と、ぽかんと開いた口はどこか滑稽だった。

「どう…して…」

 ぽつん、と零れた声は、どこまでも弱弱しい、小動物のそれ。
 まるで自分のものとは思えない、怯え震えた、情けないもの。

 けれど、それにハナビは気付かなかった。
 小さな身体をがくがくと震わせて、泣きそうに歪んだ表情で、もう一度、父親であった者を見つめる。

「どうして…っっ」

 おびただしい量の血は確かに、確かに父の身体から流れている。
 他の使用人達と同じように。
 日向家の者たちと同じように。

 ―――どうして?

「可哀想な、子」

 暗闇の中落とされた一滴の言葉に、ハナビの全身が固まる。
 びくんと身体が跳ね上がり、その振動は次第に激しく、目に見えて震えだす。
 哀れなほどに。

 震える顔を、必死に持ち上げる。
 憎しみに、怒りに濁った瞳で。
 恐怖に打ち勝とうと、必死に。

 必死に、見上げて。

 ―――それを、あざ笑う声が、小さく落ちた。

 両唇がつりあがって三日月を転がしたように。
 暗闇の中で顔なんてはっきり見えないのに、つりあがったその唇だけがただただはっきりと目に焼きつく。

 暗かった部屋の中光がさす。
 どういった神の悪戯か、光はあざ笑う口元をはっきりと映し出し、そして、見えなかったその顔をも映し出した。

「姉上…!」

 恐怖を、一瞬忘れた。
 いつも頼りなさげで、どこか儚くて、自己主張の激しい日向でひっそりと生きていた、優しい姉。力こそなくても、その優しさは人を和ませたし、清楚な人柄は人を惹き付けた。
 ハナビにとって日向の誰よりも大好きで、大好きで、自慢の、姉。

「…姉上! 姉上、聞いてくださいっ。ちっ、父上が…っ。そ、それに皆…皆がっっ」

 立ち上がって、いつものように駆け寄ろうと、して。
 気付く。
 ようやく、気付く。
 気付きたくなかった事を、気付いてしまう。

 姉の視線が、まるで知らない人間でも見るような、恐ろしく冷たいものでしかない事に。
 姉の姿が木の葉暗部と呼ばれる者の衣装を纏っている事に。
 その身体に赤い雫が飛び散っている事に。

「なっ、なんで!? どうして!! …いったい、いったい誰がこんなことをっっ!!!!!」

 叫んで、ハナビは自身の中に芽生えた感情を誤魔化した。
 震える身体も誤魔化して、何もかも見ないフリをして。

 その、瞬間。

 カツン、と音がした。

「………え?」

 髪が散る。
 何が起こったのか、分からなかった。
 呆然と、足元を見る。
 はらはらと散らばった、長い黒髪。
 紛れもない、ハナビ自身の。

 呆然とした瞳が絶望に彩られ、最後の希望にすがり付くように大好きな姉を見上げる。
 いつも優しくて、穏やかに、花のように微笑んでいた少女。

「愚かな、妹……」

 ぞわ…っ。

 全身の、産毛が逆立つような、不可解な感触。
 知らず、全身が震えていた。
 知らず、足が下がっていた。

 あれは、だれ?

 真っ白な頭の中、ぷかりと浮かぶ疑問。

 ―――あれは、だれ?

 いつも優しくて、穏やかで、ふわふわとしてて、呼べばゆっくりと振り向く。
 まっしろな瞳は他の日向の人間と同じなのに、全然違うあたたかな白。穏やかに細められると、わけもなく嬉しくなるような、そんな柔らかい笑顔を紡ぎだす。無条件の幸福をかたどったような、存在。日向の中でただ1人、心から信じられる、存在。
 
 真白い、瞳。
 なんの感情も写さないような冷たくにごった白。
 明らかに見下すその瞳に愛情など何一つ見出せず、優しさなどまるで無縁。
 それなのに、唇だけがはっきりと笑んでいる。
 はっきりと微笑んで。

「愚かなる、妹」

 蔑みの言葉を、もう一度、繰り返した。

 瞬間、世界は真白く染まる。
 真っ暗だった月明かりのみの世界から、眩いほどの白い世界へ。  

 自分さえも見失ってしまいそうな、真っ白な世界で、父が笑う。
 ハナビに微笑みかけるように。優しく。
 本当はその先に一体何が見えたのだろう。
 ハナビを通り越した視線の先に何を見ていたのだろう。
 笑顔はすぐに凍りつき、崩れ落ちる。
 ハナビを覆い隠すように。
 それを支えようとしたハナビをあざ笑うかのように、父の身体はぐしゃりと音を立てて崩れ落ちた。
 ハナビの身体をすり抜けた父の身体。
 真っ白な世界で、父親の背から赤があふれ出す。
 どこまでもゆるやかに、ゆるやかに。

 流れ出した血はとどまることを知らず、その流れを追えば、見慣れぬ靴がそこにあった。
道場で靴を履くなど許されないこと。そういった無作法を父親は一番嫌っていた。
 それなのに、無粋な靴はそこにあった。
 誰のものか、想像は容易くついた。

 理性はそれを理解していても、感情はそれを否定した。

 ハナビはそれを認めたくはなかった。
 絶対に。
 認められなかった。

「白い夜。日向に伝わる禁術の一つ。起こった出来事を蘇らせることが出来る。何度でも何度でも、術者の望むままに。ただ、真実以外を写すことは出来ない。白い夜の蘇らせる世界は、出来事は、だたただ事実。記録でしかない」

 浪々と響く声は、次第に近づく。
 血の川を道のように渡って。
 ハナビの頬に手を添える。
 促されるようにハナビは顔を上げる。
 上げてしまう。
 上げられて、しまう。

「これが、真実、よ。ハナビちゃん」

 にこり、と笑ったのは、大好きな姉…日向ヒナタ、その人。

 ―――ざわり、と全身があわ立った。

「いっ、いやあああああああああぁあああぁあああぁあああっっぁああああああ!!!!!」

 溶けるようにヒナタの姿は消えて、全く違う形を作る。
 もう、2度と見ることのない筈の、人物。

『ハナビ』

 穏やかに微笑む父親の姿。

『ハナビ様』

 最初は嫌いだった、分家の従兄弟の姿。

『ハナビねえちゃん』

 幼い、日向の子供たち。

 消えていく。
 笑ったまま、ハナビを呼んで、笑って、楽しそうに、笑って、消えて、笑って、消えて、笑って消えて笑って消えてわらってきえてわらってきえて

 手から、足から、頭から、胴から、血を、流して。

「やっ、やだっっ、いや、いやぁ!!! や、止めてぇっ!! 止めてっ! 止めてっ止めてやめてやめてやめてやめてやめて―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――もうやめてあねうえ!!!!!!!!!!!!」

 絶望に彩られた天をつんざく悲鳴に、真白い世界は壊れた。