『新しい任務を始めましょう』












 それはあってはいけないことだった。
 約束であり契約。
 かつて交わしたもの。



 どうしてだろうな。とヒナタは思う。
 自分の身体に問いかけてみる。

 何をしているの?
 どうして勝手に動くの?


 思いと身体が一致することはなく、けれどもそれこそが本当の意思というものなのかも知れなかった。


「―――変なの」


 不思議なことに、まぁ、いっか。なんて思っている自分がいる。

「…ひ、なた?」
「ひ…な…?」

 同時だった。
 ヒナタが呟いたのと、一人の忍が息絶えるのは。

 ごめん。火影様。
 約束、破った。


「―――でも、仕方ないよね」


「貴様っっ!!」

 忍がヒナタにクナイを投げつつ、刀を抜いて飛び掛った。
 ヒナタは先程の忍を仕留めた短刀をくるりと手の平で回し、後ろ手に持つと、手首の動きだけで軽く投げ飛ばす。
 真っ直ぐに忍へ向かったそれは、あっさりとかわされるが、忍の視線の先にあった筈のヒナタの姿は既にない。


「―――だって」


 聞こえた声は忍の真上。上を向いた男の両眼一杯に広がった鋭き切っ先。


      くちゃぅ


 表現しがたい音に、その場が凍った。

 嘔吐する者。
 目をそむける者。
 固まって動くことの出来ない者。
 敵の、他国の暗部と思われる忍ですら、身を凍らせ、不気味なほどの静寂がおち、そんな中、唯一人、ヒナタが刀の血をはらう。


「身体が勝手に動いてたのだから、仕方ない、よね」


 声は、響いた。
 同じ里の、木の葉のルーキー9と呼ばれた新米下忍にも。
 違う里の、ただ白眼と写輪眼を目的にきただけの忍にも。


 よく、届いた。


 そしてそれは、これから始まる虐殺の始まり。




 刀が舞い、空気を切り裂き、そのたびに血が周囲に飛び散る。その血を身に浴びる事もなく、少女は次の獲物へと目標を変え、そうして次々と人であるものの殺戮を行う。
 淡々と、何でもないように、そして、とても美しく、残酷に。

 血溜の中に、少女は立っていた。
 たかだか12の、忍としては半人前にもみたないようななり立ての下忍。日向という優秀な古き一族の頭領姫として生まれながら、落ちこぼれという烙印を貼られ、アカデミーに入学した少女。

 それが、その筈の人間が。
 今、たった一人で、数十にも及ぶ忍の群れを、なんの躊躇いも見せずに切り刻んで見せた。
 あまりにも残酷で、凄惨で、非現実的な、そのさま。

 誰も口を開けなかった。
 目の前の少女は血溜の中、振り返る。それだけで、下忍らはびくりと身を引いた。滑稽なほどに怯えたその姿。上忍すら、その顔に訝しげな表情を隠そうとはしない。彼らとて敵う相手ではなかった。その実力差は肌で感じていた。ヒナタはただ眉を上げ、息を胸いっぱいに吸い込む。

「私は、暗殺戦術特殊部隊の一人、火瑛と申します。この度3代目火影の命により血継限界及び秘術を受け継ぐ子供の護衛、及び監視を行っておりました。本来"日向ヒナタ"による積極的な戦闘行為及び"火瑛"に繋がることを禁じられておりましたが、上忍だけでは手に負えそうになかったので手を出させていただきました」

 理解できますでしょうか? そう、付け加えて、少女は血のついた刀をあっさりと捨てた。結構な業物であろうその刀を拾うことはなく、上忍の、下忍の答えを待つように、首を傾げる。その瞳は、彼らの動き一つ見逃すことはなく、冷たく細められている。
 あまりにも冷たく、ぞっとするような視線に背筋を凍らせ、けれど、魅入られたように動けない。
 彼女の纏う空気はいつもの彼女とは全く違うもの。誰も動くことが出来ずに、なんともいえない視線が至る場所をいきかう。
 果たして彼らは少女の言葉を理解したのかどうか。それすらもよく分からない。

 この場合、火影に伺いを立てるべきか、それともさっさと記憶を消すべきだろうか?
 小さく首を傾げ、少女は迷う。迷って、結局彼女は火影に判断を押し付ける道を選んだ。元々一番初めに記憶を消せばいいだけ、と言った少女に首を振ったのは火影だ。
 印を組んで、目の端で何か言おうとしたのかびくりと身を動かす者達の姿が動いて、結局は誰に止められわけでもなく術が完成した。

 ぽん、と、音がして、目の前に現れる人影。
 今まさに判子を押そうとしていたのか、腕を振り上げた状態で固まった人物。

「…………………………………………」
「………………………」
「………………」

 色々な沈黙は妙に長くて。
 しばらく誰もが動かなかった。

 凍りついた居心地の悪い時間が過ぎて、振り上げられた腕が下ろされた事で緊張が解けた。

「…ほ、かげ様?」
「…ん、んん、まぁ、何じゃ。ええと…何事じゃ?」

 下忍の誰かの声に、妙にあわあわとした様子で視線をさ迷わす里の最高責任者の姿は、いつもの威厳も余裕も何もあったもんじゃない。本人もその事に気付いているのか、やけにバツの悪そうな、それでいて面白いような、照れくさいよな、なんともいえない顔で持っていた判子をそそくさと隠した。
 そうしてようやく目の前の惨状に気付いたのか、はて? と、日向ヒナタを見やる。
 
「火瑛…お前の仕業か」

 "日向ヒナタ"でなく"火瑛"と呼んだ火影は、およそ何が起きたのか理解したのだろう。
 おだやかでやさしい目をした小さな少女はどこにもいない。触れれば切れるような空気を纏った、冷たい瞳の少女だけ。

「…じ、じっちゃんっ!! どういうことだってばよ!! ヒナタが…ヒナタが何で…!!」
「ヒナタ、なんだよな…」
「本当に、ヒナタ…なの?」

 ナルトの悲鳴のような声を皮切りに、次々と溢れだす言葉の数々に、ヒナタはただうるさそうに首を振った。火影もまた、誰に答えるよりも早く、ヒナタの姿に目を細める。

「"火瑛"が"日向ヒナタ"であることを決して悟られてはならない。"日向ヒナタ"たる姿での"火瑛"の力の行使は認めない。そういう約束だったはずじゃの」
「ええ。記憶を消す行為は認めてくださらなかったので、次なる指示に従う為にも呼び出させて頂きました」
「そういう場合はそっちからこんかい…」

 火影は苦虫をつぶしたような顔で、深々とため息をついて。

「"日向ヒナタ"と"火瑛"の垣根を外せ。もっとも、このメンバーに接する時だけの話じゃがな」
「御意」
「後、修行つけろ」
「ぎょ………………嫌です」
「約束を破ったのはどっちじゃ? 命令違反じゃぞ? 契約違反じゃぞ? のう、火瑛」
「………………………………………………………御意」

 長い長い沈黙の後、ふかーいため息を吐いた火瑛に火影は笑い、パンと一つ大きく両手を打ち鳴らした。
 その音に唖然とした顔で2人のやり取りを眺めていた下忍が、面白いようにパタパタと倒れた。突然の事ながらも上忍がそれを支える。

「はたけカカシ上忍、猿飛アスマ上忍、夕日紅上忍、明日からお前達は火瑛の支持下に入る。彼女の意思に従え。それ以外は以前と変わらぬままに。特に、他者の目があるときに日向ヒナタとの対応を変える事は許さぬ。それは下忍にも徹底することじゃ。一ヶ月間は時間をやるでの、その間に徹底する事じゃの」

「…はっ」
「……了解」
「…はい」

 火影の台詞に、それぞれ納得出来ない表情で、けれど滑らかな動作で3人同時に膝をついた。
 と、同時に火影が火瑛に視線を飛ばし、小さな少女はやれやれと頷いた。

「火瑛の名に置いて命じる。明日より20日間の合同合宿任務に入る。全ての忍具と武具を置いて周囲への説明を施した後、明日の午前7時に第2演習場の入り口に集合する事。遅れた者にはそれぞれペナルティが与えられる事を了解せよ。この任務、上忍下忍の区別はつけない。全員集合だ」

 自分たちの半分ほどしか身長のない、本当に小さな小さな少女の姿に、悪い夢でも見ている気分で上忍は『是』と頷いた。その声には未だ戸惑いが大きい。
 けれど少女は全く頓着せず、にこりと笑って一礼した。

「あっあの…また明日、よ、よろしくお願いします…お疲れ様でしたっ」

 おずおずと、それこそ悪夢の塊のような自信のない動作で言い切って、ぺこりと頭を下げて、身を翻す。
 唖然、取り残された上忍には、その言葉がよく似合った。魂を抜かれたような風情で、ぽかんと口を開けたまま、身じろぎ一つできず固まっている。

 こらえきれない、という風に、火影がふきだす。
 くつくつと人の悪い笑い声を立てながら、ヒナタの背を見送り、固まっている上忍を振り返る。

「カカシ、アスマ、紅」

 答えはない。未だ固まっている上忍に火影は更に笑う。

「…ヒナタを、頼むぞい」
「え…?」
「あの子はの、物心ついたころにはああだった。人を人と思わず、生きるものと死んだものの区別がつかず、大事な物とそうでない物が分からず…。ただ、生きていた。蔑まれようが罵られようが、日向の望まぬ長の娘の姿での」
「…………」
「その頃既に上忍並みの力は持っていたというのに、のう…」

 何かを懐かしむように、惜しむように、遠くに視線を飛ばした火影に、思わず紅は口を開いた。開かずには、いられなかった。日向とヒナタの関係を知っている彼女だからこそ、黙ってはいられなかったのだ。

「…何故? ……何故でしょうか」
「紅?」
「何故、あの子は力を見せなかったのですか…? あの力があれば、日向の者達に冷たくされることもなかった筈です…っ」

 ヒナタに対する日向の態度は、あまりにひどい。
 相手が子供だから、落ちこぼれだからと侮り、侮蔑し、目の前で蔑み、時には暴力すら振るう。日向家の当主ですら、ヒナタには何の興味も示さず、日向にいらない子と赤の他人の紅に言ってのけた。
 その不当な扱いに、どれだけ紅が憤り、何度日向に掴みかかろうとしたか分からない。
 本気でヒナタを大事に思っているからこそ、紅は日向を許せない。
 震える声音で、搾り出すように言い放った紅の言葉に、火影は深い、深い、ため息をついた。

「…"日向に疲れた"」

 多分それは、本来の力も、性格も、全て隠し、彼女が彼女になった、たった一つだけの真実。
 幼いながら日向の汚い闇を覗いた少女の、嫌気のさした結果。

 事情の全てではなくとも、紅は察してしまった。今のヒナタに対する、日向の態度を見ていればそうなるまでの過程は十分に察すことが出来る。
 唇を噛んだ紅の後ろでカカシとアスマは視線を交わす。

「ま、まだまだ先は長いでしょ」
「生きてりゃいつかいい事もある…ってな」

 紅の両肩を叩いた2人はそれぞれ3人の下忍を担ぎ、姿を消した。
 それを見送って少し笑い、紅もまたキバとシノの2人を起こしにかかったのだった。





 そして今、ここにいる。

 既に閉鎖されたはずの第2演習場で、全ての武器具を持たず、そろいも揃って不安げな表情。事情を説明された下忍の顔はそれぞれ見ものだった、と上忍たちは酒を嗜みつつ語った。昨日の話だ。

 正直、そうでもしなければ彼らもやってられなかったのだ。
 彼女の何を見ていたのか、と思わずにいられなかったのだ。
 もちろん限界を超えて飲むことはない。任務に支障のない程度…量はそれぞれ異なるが、体調管理に影は落とさない。

「せんせー…ほんとに、ほんとなのよねー…」
「昨日の、夢じゃないんだよな」
「…ヒナタ、が、暗部って……」

 いくつもいくつも落とされる不安そうな声。その表情にいつもの明るい表情はどこにもなく。

 本当だと、上忍らがそう言うよりも先に。

「…揃っているようですね」

 声が。
 
「っっ!!!!」
「武器はいらないと、そう言いませんでしたか?」

 続けざまに、そう降り注いで。
 声が近くなったと、そう思うと同時。
 ―――赤い雫が落ちた。

「サスケっ!!!」
「なっ」

 サスケが隠し持っていたそのクナイを奪い取り、それはそのまま肩口を傷つけた。何の躊躇もない動きで、彼女は刃を少年の首筋へと押し付ける。

「動かないでくださいね。貴方も、それからシノ君、キバ君、シカマル君、用心深いのは結構だけど、言葉どおりに受け取ることも重要だよ。武器が欲しいなら場所を指定された時点で先回りして隠しておこうとか考えなかった? …先生達は上手く隠したみたいだけど」

 誰も動けないその状況で、誰もが待っていた少女は、あまりに冷たい瞳で、全てを見透かすように睥睨し、そして実際に見通してみせた。
 小さくつばを飲む音が聞こえる。ひどく大きく響いたそれに反応することも、できなかった。そう、誰一人として。
 サスケの首筋に刃を突きつけたまま、少女は笑う。いつもと同じ、淡い、優しい色合いの、落とすような笑い方。
 非日常的な状況で、当たり前のように笑う。

「ヒナタ…」
「…本当に」
「うそだろ…」

 少女は、唐突にクナイを振り投げ、それは生い茂る草陰に消えた。
 なんでもないそれだけの動作が、下忍たちの目には追えず。
 ―――うそだろう?
 もう一度、そう誰かがこぼした。

 けれども少女はまるで頓着しない。
 いつもの自信のないおどおどとした動作は消えて、すぅっ、と背を伸ばす。それだけで、どれだけ雰囲気の変わることか。
 いつも俯いて、力なく伏せられた瞳が、まっすぐに前を向き、顔を上げる…たった、それだけのことで、日向ヒナタという少女は、まるで別人のように。

「任務内容はサバイバル実習。この第2演習場、罠はないけど危険な生物は多いよ。まずは5日間生き延びること。上忍は単独で。下忍はスリーマンセル。シノ君とキバ君は2人だけど構わないよね? サバイバル、得意でしょう?」
「おっ、おう…」
「……構わない」

 急に矛先を向けられ、シノとキバは目を瞠りながらも頷く。少女はそれにいつもの日向ヒナタではない表情で頷いて、ぐるりと周囲を見渡した。

「全員武器を出すこと。それと、上忍の隠した武器は後で回収しますので。この任務の主旨は、貴方たちを徹底的に鍛えなおすこと。任務というよりは修行と捉えてください。それが火影の意思です。下忍には上忍程度、上忍には三忍程度を目指します。というか、なって下さい」

 淡々とした口調でとんでもないことをヒナタは言った。
 12年間生きてきてようやっと忍になれたというのに、たった1ヶ月で上忍ときたものだ。

「ちょ、待っ、待つってばよヒナタ!」
「な、何言ってるのよ、そんなの無理に決まってるでしょう!? わたしたち、まだ下忍になったばかりなのよ!?」
「いくらなんでも、そりゃ無理だろ…めんどくせー」
「…無理だと思うから無理なんです。木の葉のカリキュラムは相当甘いんですよ。忍ごっこを続けたって、そうそう強くなれる筈がありません。と、いうか、面倒なのは私なんですよ」

 なにやらそれらしい事を言っていので、重々しい表情で聞いていた11人は、ヒナタの最後の言葉に唖然とする。表情の変わらない少女の、その言葉の意味を掴むことはひどく難しかった。

「は、ぁ?」
「め、面倒って何よ…」
「あなた達の護衛が。ひどく、面倒です」

 はぁ、と大きなため息をついて、少女はにこりと笑う。

「だから、強くなってください。チーム同士の協力は一切なし。情報交換も許可しない。あと、森の色んな場所に巻物を隠してあります。下忍の知らない術も多いから読んで覚えて下さい。見つけられたら、だけどね」

 さて、と少女は両手を胸の前で組む。下忍時によくする動作。けれどその指がとんでもない速さで動いて…ヒナタを中心に風が生まれ、それはそれぞれ下忍と上忍を包み込み、あっというまに体を押し上げた。

 叫び声は風がかき消し、あっという間に彼らの姿は森の中へと消える。

「始めたようじゃの」

 声はヒナタの真後ろから聞こえた。
 唐突な声に、ヒナタはまるで動じない。来ていることは分かっていた。見ていることは知っていた。
 小さく息を吸って、吐く。

「…火影様、例の件のことですが」
「その話は一ヵ月後のあやつらを見てからじゃ。そう言った筈じゃぞ?」
「………ええ。そうでしたね。では、私はこれで」

 消えた日向ヒナタの後ろで、火影は小さく微笑んだ。