『自己紹介』
女が近づいてくる。
薄ぼんやりとした視界の中でまったく反則めいた美貌を持つ女。
ランサーと呼んだ男と壮絶な攻防を繰り広げ、訳の分からないやり取りのうちに事を収め、こちらへ向かってくる。
そういえば、あの短剣はどこに閉まったのだろうか。
真っ赤な外套のどこにも、あの短剣をしまい込むような場所は見当たらない。
ひどく優美で、質素でありながら手入れの行き届いた頑丈な短剣に見えた。短めの刀身は左右対称であり、柄には大振りのダイヤモンドがはまっていた。月に濡れる刀身はただひたすらに実用性だけを考えて打ったかのように無骨で、武器としての機能を果たしていた。無骨に違いないのに、唯一つの刃こぼれもなく、頑強に作られた刃のあり方はひどく美しく見えた。
あの短剣を一言で称すなら、魂のこもった最高の剣。技術だけでなら、あの短剣を上回るものは幾らでもあるだろう。美しさを競うなら、他にも幾らでもあるだろう。ただ、気持ちを込め、魂を込め、扱う人間の癖、性質を考え、一心不乱に作り上げたであろうことがよく分かる作品。それが質素でありながら優美さを、優美でありながら頑丈さを作り上げた。
魂に直接訴えかけるような、短剣。
「足を怪我したのね。ごめんなさい―――ちょっと、加減を間違えたわ」
しくじった、とでも言いたげな顔。
うん。なんでこの人はこんなにも彫刻めいた美貌を持っているのに、こんなにも人間臭いのだろう。初めて見た時は恐ろしく無表情で、その癖ひどく華やかで、優雅で、清楚さすら感じさせたというのに。
「あ―――いや、あんたの所為じゃ、ない」
早とちりして、勘違いして、無防備に、2人の間に割り込んだのは自分だ。
だから、きっと悪いのは自分で、彼女に咎はない。
―――だというのに、女は申し訳なさそうに膝をつく。
自分よりも身長の高い女のつむじを見下ろして、落ち着かなくなった。
ふわり、と漂う優しい香りがどうにも気になる。
「―――」
女が低く何事かを呟く。
どことなく、何となく、覚えがあるようなないような、そんな響き。しかも遠い記憶ではなく、つい最近、どこかで聞いたような。
疑問が明確に浮かぶよりも早く、ふっ、と体が軽くなった。あんまりそれが急だったから、逆に力が抜けて座りこむ。軽くなりすぎて力の配分がおかしくなったのだ。
困惑しながら、腕を回し、首を傾け、腰をひねる。
なんともない。
本当に、全く、全然なんともなかった。
あんなにも辛く、一挙動ごとに痺れていた体が嘘みたいに軽くなって、痛みがない。
痛いというなら尻餅ついた尻くらい。
「あ、え? なんで―――」
「回復の魔術を。マスター、まだ痛いところはありますか?」
「や、ない―――…って、ま、マスターって俺か?」
「ええ。勿論」
女の手に導かれ立ち上がる。
女の手は細く、柔らかかった。
少し見上げれば、悪戯っぽく輝く青い相貌。
ふむ、と動悸の激しさとは反対に堂々と心の中で頷く。
まさしく、美人だった。
20代の半ばだろうか。
頭上で結い上げられた長い黒髪。纏めきれずに零れ落ちた漆黒は耳の前で緩いカーブを描いて、月光のなか艶々と輝いている。
理知的な瞳は澄んだ蒼で、きつく見えがちな吊りあがった目にも関わらず、どこか柔らかい。薄く施された化粧は簡単なものだったが、彼女の美しさを引き立てていた。
はっきりとひかれた唇のルージュは女の美貌を尚も際立たせ、印象だたせる。
真紅のようなルージュはその身に纏う外套と同じもの。
ふと、気づく。
全身を覆うように羽織った赤い外套の下、それは妙に現実感があった。
あまりにも現実味がない女の容姿と外套。
それがどうしても目につくから、余計にその下は目立たず、こんなにも現実感がある姿でありながら、今の今まで気が付かなかった。
黒い、スーツだ。
スーツに白いシャツ、ネクタイまでびしっと決めて…って、ちょっと待て、なんで見覚えのあるブランドのロゴが入ってるんだそのネクタイ。
よくよく見てみると、女社長と呼びたくなるようなバッチリ決まった格好だった。
うん。スーツはスーツでもタイトスカートのスリット入りというなんともアクティブなスーツである……わけあるか!
…ともかく、間違ってもあんな立ち回りするような格好ではない。
長くすらりとした脚は黒いストッキングに覆われているから、全然気が付かなかった。
夜で薄暗い所為もあったし、赤い外套が目立ちすぎる所為もあった。
なんかくらりとした。
なんでそんな格好で戦うんだ。
というか、不釣合いだ。
違うだろう。
絶対に違う。
うっかり見惚れたりなんてしたのもそうだけど、短剣なんて取り出してあんな立ち回りを見せた人間がこんな格好をしていて許されるものか。
大体女が戦うなんて、その時点で違うと思う。
そりゃ護身術は必要だろうし、自分の周りには強い女性も揃っているが、それでも―――、あんな、生きる死ぬの瀬戸際のような戦い…は、間違ってる。
「マスター、手を」
「え? ―――うわっっ!!!! ご、ごめん!」
どうやら相当呆けていたのか、細い指先を握ったままだった。
苦笑している女に、まずは落ち着いて話を聞かなければ、と思う。
顔が熱いとか全身湯気がたちそうだとかそんなの関係ない。うん。全く全然関係ないぞ。
「えと、それで、マスターってなんだよ。俺はそんな名前じゃないぞ」
跳ねつける様な口調になったのは…うう。どうせ顔も熱いし混乱してるさ。
ぱちり、と長い睫が往復。
あー、と女は先ほどのランサーのように天を仰ぎ、やっちゃった、というようにしみじみため息。
「あーまだ貴方の名前を聞いていなかったわよね。どうしてこういつも忘れてしまうんだか…まぁいいわ。マスター、私のことはタクティシャンとお呼び下さい。それではマスター、お名前を」
はいどうぞ、と、促され、
「…お、俺は士郎。衛宮士郎っていって、この家の人間だ」
そんな間抜けな返答をしてしまった。
…いや、そりゃこの家の人間に決まってるだろう。
自分自身に呆れてしまう。
……けど。
この、目の前にいる、タクティシャンと名乗った赤い女は、俺に名前を聞くよりも先にわざわざ名乗ってくれた。
簡単なことだけど、筋が通ってる。
タクティシャンなんて、変な名前過ぎるけど、きっとこいつは良いやつだ。
「衛宮士郎」
一瞬、自分の名前なのに、自分のモノでないような気がした。
タクティシャンは、ひどく優しげにそう名前を呼び―――
「では、士郎とお呼びしましょう」
そう、邪気のない、子供のような素直な笑顔を見せてくれた。
「っ………!」
照れる。
これは、照れる。
顔から火が出そうだ。
こんな美女に、士郎だなんて、そんな優しく名前を呼ばれたら、そりゃもう照れるやら恥ずかしいやら嬉しいやらで大変だ。
というかどうして名字じゃなくて名前なんだ…!?
呆然としていたら、急に左手に痺れが走った。
「痛っ……!」
手の甲が、熱かった。
ただ、熱い。
発火しているのだと、そんなおかしな錯覚を覚えるほどに熱かった。
おそるおそる伺った左手は勿論燃えてなどいなかった。その代わり―――
「な―――」
入れ墨のような、真っ赤に染まるおかしな紋様が刻まれていた。
「士郎、それは令呪と呼ばれるものです。どうせ説明したってまだ分からないと思うけど、とにかく大事に扱って下さい」
そう言うなり、タクティシャンは赤い外套を翻す。
ひどく慣れた足取りで庭を通過し、門へと向かっていた。
「た、タクティシャン?」
言いにくい!
初めて口にした名前はとことん言いにくい。
うっかり舌を噛みそうだと思いながらも赤い外套を追いかけた。
振り返らずに、タクティシャンはそれを拒否する。
「士郎はお茶の準備をお願いします。私を含めて4人分お願いします」
「は? お茶? 4人? ってなんでさ」
「お客様を私は迎えますので」
「ちょっと待った! 客って、お前、余計俺が行くべきだろう!?」
大体、衛宮邸に存在しないはずの黒髪美女に客を迎えられても困る。非常に困る。
宅配便やセールスならともかく、藤ねぇや桜だったら一体どうなるのか想像もつかない、というかこんな時間に客が来るはずない!
「いいえ、マスター。これは私の役割です」
はっきり断言したタクティシャンに、そんなわけないだろうと言い募ろうとしたところ、何事かに気が付いたかのようにピタリと彼女は足を止めた。
「…ああ、そう、そうか。―――士郎、ここは私を信じていただけませんか?」
1人頷き、納得した様を見せながら、タクティシャンは振り返り、にこりと笑う。
う―――、なんか、怖いぞ。いや、でも、ここで負けるわけには。
「私は貴方を信じています。マスター」
にこり。
「あ―――う………」
負けた。衛宮士郎はここで負けた。
そんな私は貴方を信じているのに、貴方は私を信じてくれないのですね、なんて視線ずるいぞタクティシャン。
あとついでにその満開の笑顔もすげーずるい。
「分かった…。けど、変なことはするなよな」
「ええ。マスター」
あえてマスターと呼んでいるのだろう。
はぁ、とため息をつきながら、タクティシャンとは反対方向へと向かう。
玄関の扉を開けて靴を脱ぐ。タクティシャンの後姿を見ながら扉を閉めると、ちょうど閂を開ける音がした。
暗闇の中でもすぐに開けれるほど、その閂は分かりやすい場所にあっただろうか、と、ちらりと頭をよぎったが、すぐにそれは新しい問題へとすり替わる。
すなわち…ランサーとやらのおかげでめちゃくちゃになった居間の始末をどうするか、ということへ―――。
2010年10月5日