ガラクタの世界


  『廻り始める』












 それまでは、生きていることに執着した事はなかった。
 日向ヒアシの駒として育てられ、生と死の境を彷徨ったことも、多々あった。
 生きる目的も意味も、何も持ってはいなかった。
 死んだらそれはそれでいい。死に対する恐怖もなかった。

 だが、3歳の時、一人の子供に会った。
 それは、今思えば決められたことでしかなく、日向ヒアシの計略であったことは言うまでもないが。

 それでも。
 気付いた時は、もう、遅い。
 抱いてしまった。誰にも…誰に対しても全く持つことのなかった、愛情というものを…。

 愚かにも。愚かにも。








 そうして、ガラクタの世界は廻り始める。








 真っ黒の雫を零したような男は、唐突に火影室へと現れた。
 正確には、結界の全てをすりぬけるようにして窓から入ってきた。

「黒羽か…」

 視線は書類に固定させたまま、小さく火影が呟き、その後ろで黒衣が頷いた。気配でそれを察し、火影は小さく息をつく。
 実のところ、火影室の窓の鍵は常に開いている。無用心な、と思うかもしれないが、幾多もの結界に包まれたこの部屋は、ちっぽけな鍵で封鎖するよりずっと厳重だ。第一この窓を出入り口にする人間などたったの2人だけだ。そう、この男と、もう1人。頻繁に、とは言えないが、それでも月に1、2回程度はこの窓を出入り口として使う女がいた。数年前の話だが。

「…こんな時間にどうした」

 空はまだ明るい。面倒臭がりで寝てばかりの彼が、任務も何もない日にこうやって顔を出すなんて珍しすぎる。

「中忍試験、戦争が起こりますよ」
「―――…相手は」
「―――砂」

 カタ。

 小さな音が、やけに大きく響いた。転がる筆がやけに遅く見えた。
 火影の横顔を小さな汗の雫が転がり落ちる。

「―――なん、じゃと」

 わずかな、けれどもひどく長い時間が過ぎて、搾り出すような火影の声が机の上に落ちた。
 あり得ない、なんて、さすがに火影も思ってはいなかった。
 それでも、木の葉と風はなんとかバランスを保ってやってきたし、昔に比べ、合同任務の数も多くなった。互いに互いをいがみ合うことも随分と減り、少しずつ、上手く纏まってきたように思っていたのだ。

「月翼からの情報です。風影は行方不明。音の者が砂上層部へ入り込んでいます」

 数枚の書類を火影に差し出し、その目が文字を追う。あり得ないほどの速さで文字を追い続ける火影の顔色は、ひどく悪い。

「大蛇丸…」

 零れた名前は、かつての愛弟子の名。そして、今回の戦争の主犯格。
 黒羽は、火影の歯と歯とがこすれ合う嫌な音を聞く。冷たい氷のように冴えわたった火影の殺気。それは、本人すらも自覚しているものではないのだろう。書類を通して、今はもうここに居ない存在へ向けられた殺気。忍としての全盛期などとっくに超えた筈の老人に、黒羽は冷たい汗を流した。目の前に居るのは、永い年月を火影として生き、里を支え、里を守り、導いた存在なのだ。

 深く思考に沈み込んだ火影を邪魔しないよう、極力気配を消し、無言に徹する。
 火影の持っている書類の内容は、黒羽もよく知っている。
 大体は月翼より手に入れた情報。砂に潜入し手に入れた情報。最近の音の動向。そして、砂や音以外の国の動向。今のところ音と砂に組するような気配を見せる国はない。それは砂の上層部の意向を聞く月翼も同意見。
 よって、今度の騒動は完全に音と砂、そして木の葉に関するものだ。

「…今度の中忍試験、砂からテマリの志願書があったが」
「音の主は、月翼の正体を知りません。……それが、救いかと」
「そして、有翼の正体も知らん」
「はい」

 目を閉じた火影は、ゆっくりと息を吐く。多くの皺に混じり、分かりにくいとはいえ、しっかりと刻まれた眉間の皺。
 目を開いたとき、彼の瞳に迷いはない。椅子から腰を上げると同時に振り返り、強い視線が黒羽を捉える。

「任務じゃ」
「はっ」

 跪いた黒衣に、火影は頷き、続けた。

「中忍試験、新人下忍3班全ての志願書を受け取っておる。どの班も旧家名家の嫡子が多い。よって、有翼はいつもどおり継続して下忍の護衛を、それに平行し、桃羽はうちはの護衛と監視を強化、金羽は音の試験者の監視、黒羽は砂の主を探せ」
「それは、月翼の指示下に入る事で宜しいでしょうか」
「いいじゃろう。ただし月翼の動向は報告してもらう」
「承知しております」
「ならいい」
「ヒノトの件に関してはいかがしましょうか」
「継続じゃ。ただし表沙汰にして警戒させろ。砂と音に乗じて木の葉に反するような素振りを見せた時は、暗部を動かす。綱手と自来也も好きに使うといいじゃろう」

 迷いもなく、淡々と命じた火影に、黒羽は是と頷いた。
 これが、自分達の従うべき者のあるべき姿。火影と言う存在だ。
 そう、小さく笑った。






「…疲れた」
「…右に同じ」

 ぐったりと机に突っ伏して、ナルトとサクラは向き合う。表では決して出してはいない疲労の色がくっきりと出ている。2人の目の前には嫌になる程ずらりと並んだ人の名前と、その上にこれまた嫌になる程並んだ×印があった。
 日向分家の下忍の名前だ。

「…後、何人なのよ…」
「………………………………38人」

 ナルトの言葉を聞いて、最早声も出ないというようにサクラは息を吐いた。机の上に乱れた髪が流れる。我ながら長い髪だ。特に理由もなく、強いて言うならば表での演技のためにずるずると伸ばしてしまった。

「………ほんっと…ため息しか出ないわ」

 前言撤回は、出来ない。と言うよりはしない。
 サクラのプライドがそれを許さない。自分が一度口にした言葉を翻すなんて言語道断だ。

「…お前ら…ヒノト探しはいいけど下忍生活に変調きたすなよ?」

「シカマル」
「シカマル!!」

 大きくため息をついた家の主の登場に、2人共に一気に顔を上げた。

「手伝え!」
「手伝いなさい!!!」

 全く同じ意味の言葉を叫んだ2人だが、予測済みのシカマルは耳を塞いでシャットダウン済み。しかめっ面で机の上にあったお茶を飲み下す。それは本来サクラのものだったのか、僅かに目を細め眉がつりあがったが、怒り出す気力もなかったのか、ため息を吐くだけに終わった。

「っつーか、お前らは少し寝ろ。カカシ辺りが怪しんでるぞ」
「「…げ」」

 ここ最近下忍任務は影分身に任せきりが多く、ほとんど自分では把握していない。一応報告は聞いているし、任務外でカカシやサスケに会っても怪しまれない程度に演技はしていたはずだ。ただ…疲れているのは自覚済み。正直暗部任務を一週間連続でこなしたときよりずっと疲れてる。そもそもナルトもサクラも尾行や調査など、繊細な技術にあまり向いていないのだ。勿論暗部の中でも最強と呼ばれるナルトや、かなり優秀で暗部内でも上から5番目に入るサクラであるから、他のどんな暗部より全ての技術を誇ると自負している。ただ、神経を恐ろしく消耗するだけで。

「カカシの方はまだいい。サスケや他の下忍辺りにでもばれてみろ? 収集がつかなくなんぞ」
「………別に」

 ふい、と横を向いて呟いたサクラの声はあまりに小さく、ほとんど聞き取ることは出来なかった。
 小さく眉を潜め、それをシカマルは見、けれど口は挟まない。それよりももっと重要な事が今はある。

「それから」

 声が変わった。

 "奈良シカマル"でない、暗部第3班『有翼』隊長、"黒羽"の声音。その変化を感じ取り、ナルトもサクラも、真剣な表情でシカマルを見上げる。
 黒羽は桃羽と金羽を見下ろし、言った。

「―――任務だ」






 動きだす。

 廻りだす。

 狂いだす。

 壊れだす。

 ―――愚者の息吹が始まりを告げる。

















 






2007年5月12日