『ほどけおちる』









 偶然かもしれないんだけどね。
 ―――そう、前置きして、チョウジは言った。

 彼がこうして前置きまでして言葉にするとき、間違えていたことはほとんどない。彼の中で確信に近いことだけが、こうしていのにもたらされる。
 だから、いのはそれを偶然とは思わなかったし、きっとそうなのだろうと思った。

「ヒナタと、テマリと、シカマル。ヒナタはテマリが来ると喜ぶ。けど…シカマルとテマリが一緒だと、喜ばない。…あれは、なんていう感情なのだろうね。ひどく悲しそうに、けれど、どこか嬉しそうな顔をする」

 いろいろな感情をごた混ぜにして溶かして、それらを隠そうとして、結局火影としての穏やかな笑顔を纏う。
 ずっと見ていれば、それはすぐに分かった。ヒナタは、自分達に対して時折ひどく無防備だ。少なくとも、昔の仲間や、他の忍に対してより心を許されていると思う。

「……どういうことー?」
「シカマルとテマリでは、テマリの方が上なんだろうね。ヒナタの中での優先順位は。そして僕たちよりも、上。どういう関係か知らないけど、ヒナタはとてもテマリを大切に思っている」

 シカマルよりも、チョウジよりも、いのよりも。

「そう、なのかなー? …シカマルが言ってたけどー。彼女、一人で木の葉にいるのが怖いんだってー。それでねー、彼女が一人になることって本当にないのよねー。いつも木の葉の誰かがちゃんと傍に付いているのよー。シカマルだったりー私だったりーキバだったりーネジさんだったりー、テマリさんの事、わかってたからヒナタはそうしているのかなー?」
「うん。そうだと思うな」

 チョウジの「そうだと思う」は、「そう」と同じこと。
 いのは首を傾げる。いつからそんなに深い交流がヒナタとテマリの間に存在したのか。少なくとも、自分達3人がヒナタの本当を知った後ではない。

「あと、テマリと火津のこと」
「え?」
「…火津は、いつも火影と共にいる。付き人として当然だし、彼の役割は火影にとって欠かせない存在でもある。気に入らないけどね」

 そう、少しだけ笑って、「でもね」と続けた。

「…いないんだよ。テマリが来るとき、テマリの居るときだけは、いつも、火津はいない。火影の隣にいない」

 いのが、僅かに目を見開いた。
 それは、ただの偶然なのかもしれない。丁度チョウジの見たときだけだったのかもしれない。テマリとの任務が多いシカマルや、他にも彼女と任務をした事のあるメンバーに話を聞いてみても、火津はいないことが分かった。ただ一度だけ、シカマルがテマリといるときに火津と会ったという。その時火津は、テマリを宿まで送ったのだと。そう聞いた。

 間違いなく、テマリと火津には何かがある。
 そしてそれをヒナタも知っているのだ。








 チョウジが思考をめぐらせている頃、草原の真ん中にテマリは立っていた。
 森をぽっかりと切り抜いた空間の、青々とした草原。遠くを見れば四方を木々が囲んでおり、空を見上げれば気持ちがいいほどの晴天だった。

 隣を見ても誰もいない。
 けれど、ここにくれば、彼がいる気がして―――違う。
 ここに、彼はいる。

 柔らかい草の上を暴れまわって、転がって、楽しそうにはしゃいで、笑って、笑いあって。
 明るい、自分の髪なんかよりずっと明るい黄金の髪。
 空なんかよりずっと透き通った鮮やかな青。
 声はまだ自分よりも高くて、あんまり叫ぶとキーンと耳がなるから止めろと言った。
 楽しくて、楽しくて。
 足音がばたばたと回って、声がいくつも響いて、太陽のような髪が光って。

「火津」

 火津がにこりと笑う。悪戯っ子の笑顔。見ているだけで、幸せになれるあたたかな笑顔。
 胸の奥に灯る温かな光。じくりと、どこかが痛んだのは何故か。
 笑って、火津に手を伸ばした。
 火津も笑って、テマリの好きな満開の笑顔で手を伸ばし―――


 ―――ガサリ、と音がした。


 不意に現れた気配に、テマリは迷うことなくクナイを引き抜いた。音の根源にクナイを向け、体勢を整える。
 ただ、目に映ったのは甚だ予想外の姿。あまりに無防備な、2つ年下の少年の姿だった。

「し…か、まる」
「テマリ、か? へぇ。珍しいとこで会うもんだな」
「…な、ぜ…ここに?」
「…ん? あー前に、任務帰りで見つけたんだよな。ここ。昼寝して空を見上げると気持ちいーんだぜ?」
 
 金色の影が、青い瞳が、まぶしい笑顔が、シカマルに重なって…そして、溶けた。
 伸ばした手はそのままに。満開の笑顔はそのままに。
 けれど何もなかったかのように掻き消えた。―――否、最初から、何もなかったのだ。

「あ…」
「テマリ?」

 甲高い声に、低いシカマルの声がかぶさって、跡形もなく消える。
 零れ落ちていく。
 消えていく。
 溶けていく。

 何もなかったように、何もかもなかったかのように。
 
 シカマルが動けば、火津の笑顔が消えた。
 シカマルが話せば、火津の声が消えた。
 シカマルが居れば、火津の気配が消えた。

「―――っっ!!!!!
「おい、テマリ…?」

 消えていく、消えていく。
 テマリを形成していたものが、跡形もなく消えていく。
 テマリには何も出来ない。
 消えていく。
 消える。

 胸の奥で何かがうずく。
 頭の芯に思い切り殴りつけられたような激痛が走る。

 小さく、小さく、首を振る。
 消えていくその欠片を掴めないかと、手を伸ばす。

 何も、残らない。
 テマリの元には何も。

 ただ、消え去るだけ。


 ―――手を伸ばしても届かない

 ―――叫び声がいくつも交差して

 ―――刀が……


「止めろ…!」

 鋭い声に、テマリの手を掴もうとしたシカマルの手が止まった。不審げにテマリを見て、絶句する。視線はこちらを見ていながら、テマリはシカマルを見ていない。確かにシカマルを捕らえているはずの視線は、彼に対して結ばれることはない。

「止めて…くれ…っっ!!」

 耳を塞いで、瞼をきつく閉じて、全てを拒むように首を振った。握りっぱなしだったクナイが草の上に落ちる。
 激しく震えるテマリの身体に、シカマルは唖然とするしかない。

「おい…。テマリ…? どうしたよ…」

 耳を塞いで首を振る女の姿に焦れて、シカマルは彼女の手首を掴んだ。そのまま耳から引き剥がして、

「テマリっ!」
「―――止めてっっ!!」

 ドン、と音がした。一瞬のことがやけに長く思えて、シカマルは後ろに倒れる自分を客観的に理解する。
 振り払われた。
 そのことが、頭の中をぐるぐると回る。
 力なく尻餅をついて、シカマルは唖然としたまま、テマリを見上げた。
 完全な、拒絶だった。 

 テマリは、震える身体を両手で強く押さえ込んで、後ずさる。そのままぺたりと座り込んでしまった。

「で、……って…」
「…え」
「ここから、出て行って!!!!」 

 魂を、切り裂くような声だった。
 悲鳴に近かった。
 泣いている人間のそれだった。

 それ、なのに、シカマルは動けない。
 拒絶された、たった一度のそれが、シカマルの身体を縛った。

「出て行ってよ!!!! ここからっ!!! 私と、火津の場所に入ってこないで!!!!!!!!」

 子供みたいに泣きじゃくって、テマリは叫んだ。
 その言葉は、先程の拒絶以上にシカマルを打ちのめし、足に根が生えてしまったかのように動けなくなった。目をこれ以上ないほどに見開いて、がくがくと震える身体でテマリを見る。

 うずくまって、目を閉じて、耳を塞いで、その身体全身で、シカマルを拒絶する姿があった。
 手を、伸ばしかけて、やめた。
 怖かった。
 手を伸ばして、テマリを慰める。それだけの行為が果てしなく難しく、ひどく恐ろしかった。
 感情を押さえ込むようにして、強く、強く握り締めた拳に出来ることは何もなかった。

 気が付けば、シカマルはその場から逃げるように走っていた。
 忍としては、あまりにも無様に、見苦しく、音を立て、地を蹴り上げて、ただただ必死に走っていた。

 一度も立ち止まらずに、全てを忘れるくらいがむしゃらに走り続けた。









「…今、空いている暗部は何人だったかしら?」

 ふと、書類をめくる手を止めて、火影は目の前で同じように書類整理する火津に目を向けた。同じように、といっても、こっちにある書類の方が火影の元に置かれたものよりはるかに多い。それは、火影に見せる必要があるものと、火津のレベルで処理できるものとを分けるためだ。火津の処理した書類は一覧にして火影にわたし、火影はそれによって全ての書類の理解をするのだ。

「そうですね…。"礼花"ぐらいかもしれませんね。彼らには今週上忍任務を渡していましたが、もう終わらせて勝手に休暇に入っているようですし」
「……そう。そうか。上忍で空いている忍は?」
「…難しいかも知れませんね。はたけカカシ上忍なら、昨日までは空いてたのですが」
「確か、下忍にさせるにはレベルの高い任務を引率ついでに…」
「ええ。…以前の担当上忍が任務で殉死した下忍チームでしたので、仮担当を任せました。多分、ずっとは無理でしょうね」
「………嫌になるくらい忍が足りないわ。最悪、火津にも動いてもらうわ」
「…"礼花"と、ですか」

 複雑そうにその名前を口にした火津に、火影は笑って頷く。

「最悪、の話よ」
「そうですね…」
「あーーーーーーあ。疲れたーー」

 ぐいーーーっと長い伸びをして、折れ曲がっていた背を伸ばす。手を伸ばした先には丁度窓があって。そこには気持ちいいくらいの青空が広がっていて。火影はしばしそれに見惚れた。

「…少し、外に出ますか?」
「?」

 たまには、と思って、火影室に缶詰めになっている少女にそう言えば、ひどくきょとんとした顔で見上げられてしまい、火津は思わずふきだした。そんなに意外なことを言ったつもりはどこにもない。

「ただし、変装してくださいね」

 付け加えた言葉に、ようやく火影は意味を理解した。ぱぁ、と表情を輝かして、2度3度頷いた。火影の重苦しい衣装と帽子を脱ぎ捨てて、動きやすい黒の忍装束はそのままに、どこからか昔着ていたようなパーカーを取り出してきて、羽織る。変化で、髪の色と目の色を茶色にすると、おまけといわんばかりに10歳前後の子供の姿になった。
 これでどこからどう見ても、火影の姿ではない。

「また小さくなって…」

 苦笑して、火津もまた変化する。
 真白く長い髪は真っ黒に、そして短く。瞳孔はあるが色素のない瞳もまた黒く。年齢も服装も変えることはなかったが、彼が着ているのは極一般的な忍装束であったので、特に目立つことはないだろう。
 そもそも火津の顔をちゃんと覚えている人間は少ない。
 その真っ白な長い髪と、色素のない不可思議な瞳にまず目を奪われるからだ。
 ヒナタの場合も同じ。まずはその白眼という特徴に視線は集中する。

「行こう、火津」
「ええ」

 楽しそうに、本当に楽しそうに火影は窓から身を乗り出して、飛び降りる。10歳の少女が屋根に飛び移り、そこから更に遠い大地まで飛び降りる光景は、誰が見てもぎょっとするような光景だっただろうが、幸いにも見ている者は居なかった。
 それに苦笑して、火津は後を追う。
 とん、と大地に足をつけば、待ちきれないと言わんばかりに10歳の火影は走り出した。

 それを笑いながら追いかける火津の姿は、まるで子供を見守る父親のようで、ひどく微笑ましいものだった。


















2007年7月8日