『えがお』









 山中いのが、"それ"と出会ったは15の時のことだった。
 うだるような、暑い、夏の日。
 さわさわとあまりに大きな木が、葉が、草が、花が、揺れて。

 まるでその唱和は声のように。
 ―――否。
 声だった。

「だれー?」

 ぴたりと、見事に音が消える。
 全ての音が消え、全ての動きが消え、風すらも止む。

 ―――俺の言葉が、聞こえるのか?

 恐ろしいほどの静寂のあとで降ってきたのは、先ほどまでのさざなみのような、まるで言葉を為さない声とは違い、明確な"言葉"だった。








「それでねーチョウジが煮詰まっててー、って、勝手にそんな感じがしただけなんだけどー、一人にしていた方がいいのかなーって思って、ここに来たのよー」

 ざわり、木が揺れる。
 それを受けていのは、むっとしたように眉を怒らせ、腕を振り上げる。細い華奢な腕は、そのまま草の上に振り落とされて、少しの振動を土に与えた。ほんの少し、土がえぐれる。

「ちょっとー倦怠期ってどういうことよー私とチョウジの間にそんなものあるわけないでしょーーー!」

 さわさわと風が吹いて、いのが休む木の影に沢山の葉が降り注いだ。

「分かればいいのよ分かればー」

 声は、たったの一人分。
 けれどいのはまるで会話をしているかのように受け答えをする。
 その姿はあまりに奇妙で、あまりに異常で、知らないものが見たら狂っていると判断しただろう。
 けれど、違う。

 ―――それで、何? いのは火影を疑ってんの?

 他の人には葉のざわめきや、風の吹く音にしか聞こえないという。
 けれどいのには声が聞こえている。
 ここに来て、呼びかければ声は答える。
 声がなんなのか、いのは知らない。昔は幽霊らしきものが見えたりしていたので、その類だろうと思っている。

「私はねー、別に、ヒナタが何を隠してても全然かまわないのよねー。火津は嫌いだけど、だから何をするってわけでもないしー。大体気に食わないのはナルトに似てるからであってー、ホントは火津が悪いわけじゃないのよねー」

 ―――ふーん。そんなに、似てるんだ?

「似てるわよー。だからなんか…悔しいでしょー? ナルトはいないのに、火津はヒナタといつも一緒ー」

 ナルトとヒナタはとても仲がよかった。
 それをいのが知ったのは12の時で。きっと中忍試験が終わってしばらくした頃。そうナルトに言ってみれば、「付き合い始めたんだ」なんてのろけ始めて、滅茶苦茶仲の良いその感じが悔しかったから、裏だけの関係だったチョウジとの関係を表に出した。勿論シカマル以外の誰もが驚いたけど、ラブラブ街道真っ只中のナルトとヒナタに向かって「私たちだって負けないわよー!」と、謎の宣言をして、4人でダブルデートじみたものも沢山した。
 あの頃は、本当に楽しかった。
 ナルトとヒナタは本当に仲がよくて、幸せそうで、誰が見ても相思相愛のカップルで、いつも、いつも、笑っていたのだ。

 それ、なのに。

「ナルトが死んで、ヒナタは変わったわー。笑顔なんて見せてくれなかったし、元気なんてどこにもなかった。私たちにヒナタの力を見せてくれたのだって、きっと必要だったからなのよねー」

 そうでなかったら、自分たちもまた、彼女が火影になるその瞬間まで、彼女の実力を知らなかったかもしれない。礼花として働いてきたいの達は、火影の裏に何か違う存在がいることは気づいていたが、まさかそれがヒナタだったなんて思いもよらなかった。

「本当の力、出してからのヒナタは、すっごく意地悪でー人をからかうのが好きでー、私たちは振り回されてばっかりでー…、でもいつからか、笑ってくれるようになったから、嬉しかったなー」

 ―――…いのは、本当にヒナタが好きなんだね。

「そうよー。私がヒナタの中で何番目か、なんて関係ないわー。私はヒナタが大好きだし、守りたいって思うのー。それはね、きっと皆も一緒だと思うのよねー」

 チョウジも、シカマルも、キバも、シノも、ヒナタが火影だからじゃない。ヒナタがヒナタであるから、守りたいと思うのだ。守ろうとするのだ。

「っていうかー…話、むちゃくちゃそれてないー?」

 ―――何を今更。いのはいつもそうじゃん。

「えーー? そんなことはないー…って言い切れないのよねー」

 ざわざわと木々が揺れる。
 笑い声、だ。

「と、とにかくー、私がヒナタを疑うなんて有り得ないわー」

 そう、力強く頷いたいのに、笑い声が大きくなった。
 強い風に巻き上げられた葉がいのに向かって飛んでくる。それを受け止めて、笑った。
 誰かが笑っていれば、自分だって笑いたくなる。

「ヒナタの昔の笑顔、見たいなー」

 ナルトがいなくなってから失われた、あまりにも幸せそうなヒナタの笑顔は、いのの頭の中から消えたことがなかった。
 火影たるヒナタは確かに満面の笑みを浮かべるけど、あの昔見た笑顔とは違うのだ。

 今の彼女は、あんなに無邪気には笑わない。
 あんなに幸せそうで、あんなに楽しそうで、あんなに嬉しそうに笑うことは、もうない。
 
 一度だけ、火津に笑う火影を見た。

 ―――あんなにも悲しそうで、切なくて、さびしげで、苦しそうに笑うヒナタを、いのは知らない。

 だから、多分、その時から、余計に火津が嫌いになった。
 ぐっと眉を顰めたいのを馬鹿にするように、木の葉が踊るようにして巻き上がり、いのの髪に絡まった。





「チョウジ」

 街の雑踏の中で呼ばれて、チョウジは音の根源を探した。ひどく幼い、甲高い響きの声だった。子供だろうか?
 意識的に視線を低くしてみれば、すぐにその姿は見つかった。人ごみから少し離れて、家の壁を背にもたれて手招きをしている。
 茶色の髪と目を持つ、10歳くらいの子供。見覚えはまるでない。

「ええと…呼んだのは君かい?」
「ええ。そうよ。何をしているの?」

 どうにも自分を知っているらしい子供に、内心首をひねる。全く知らない子供だ。けれど、子供の後ろに立つ一人の青年を見た瞬間、まさか、と口をあけた。短い黒髪と瞳を持つ青年。その顔立ちは、チョウジの知る者と同じだった。けれど、髪の色と瞳の色が違うだけでなんて印象が違うのか。

「ひ、づ…」
「ええ。まぁ」
「………………」

 肯定の言葉に、チョウジはぎこちなく視線を子供に戻す。
 自分を知っているらしい子供。そして火津と共にいる子供。
 どっと力が抜けた。

「………何を、しているのですか……火影様」
「あら、分かっちゃった?」
「…分かるも何も…って、仕事はどうしたんですか…」
「こーんな暑い日に仕事なんてやってられるもんですか!」

 一体全体どこの下忍の台詞だと突っ込みたい。けれど、そう明言する外見年齢10歳の火影はいっそ清清しかった。前みたいに自分たちの力をクーラー扱いされないだけマシなのかもしれない。

「チョウジは何をしてるの? 任務勝手に終わらせて休みに入ってるのは分かってるんだから、素直に答えてね」

 にこりと笑った火影の笑顔は、いつもの、慈悲深くて、心があらわれる様なそれ。その後ろは真っ暗だと、チョウジは汗をかく。

「いのを、探してたんですよ」
「何? 振られたの? 倦怠期?」
「ありえませんから」

 すぱっと言い切られて、火影は瞳を瞬かせた。

「自信満々スギ。ちょっとは動揺したらいいのに。つまらない」
「つまるつまらないの問題ではないですよ…」
「っていうか、こんな子供に敬語使うの止めたら? 皆奇妙な目で見てるわよ?」
「…ヒナタ、でいいのかい?」
「ええ。チョウジ」

 ふわりと笑ったヒナタは、急に我に返ったかのように辺りをきょろきょろと見回す。あんまりにも幼い、外見どおりであるような仕草に、火津は苦笑し、チョウジはあっけに取られた。
 普段火影としてのヒナタを見慣れているから、ギャップがものすごい。

「ねぇ、チョウジ。チョウジなら知っているでしょう? ここら辺で美味しいお茶処」
「…ああ。もしかして最初っからそれが聞きたかったの?」
「ええ! 火影室にこもってたら肩が凝っちゃったし、たまにはいかにも女の子らしいことしたいじゃない?」
「それなら、いっそマッサージでもしてもらいに行ったらどう? 髪も伸びっぱなしみたいだし、切ったらいいと思うよ」
「それも良いわね…」

 と、悩みこむヒナタだったが、考えてみれば今の年はたったの10。マッサージなんて行ったら何事だと思われそうだし、髪の色だって変えている。どちらも行こうと思うなら変化をとくしかないだろう。そして、そうなればさすがに気づく者だって出てくる。
 別にばれたって構わないといえば構わないが、煩わしいし、最近は結構静かになってきた日向の者達や、火影のお目付け役…前火影のご意見番がうるさい。

「やっぱりお茶!」

 がばりと顔を上げて宣言した。
 それと、同時だった。

 ざぁ、と降った、黒い塊。

 火津も、ヒナタも、チョウジも、おおっぴらにはしなかったが、内心かなり驚く。あまりに唐突で、完全に油断していたときで、それでも敵意のあるものが近づこうものなら対処してみせる自信はあったが、その塊の気配は慣れ親しんだものだったがために、見逃していた。

「チョウジ! 火津のヤツ見なかったか!?」

 開口一番がそれだ。
 だれがどう見てもその姿形は奈良シカマルのものであったが、その、余裕なんてどこにもない切羽詰った表情に、あっけに取られていた。常の奈良シカマルに有り得ない姿。
 よく見れば息は上がっているし、汗も全身から流している。

「何か、あったの?」
「いいからっ、火津は! クソ、なんでこんなときにかぎって火影も火津もいねーんだよっ!!」

 それは珍しく外に出て今シカマルの目の前にいるからだ。
 シカマルは一度火影室まで走ったのだろう。火津は大抵そこにいるし、たとえいなかったとしても、火津に一番詳しい火影がいるはずだから。

 ヒナタと火津は顔を見合わせた。
 ヒナタは軽く頷き、火津だけが変化をとく。

「何か、用ですか?」
「―――っっ!!!」

 シカマルの顔色が、ざぁ、と赤くなった。何、と思うよりも、シカマルが火津の手を掴む。

「お前、来い…!!」
「なっ、な…にを!!」
「いいからっ、テマリが、早くっ」

 あまりにシカマルらしくない慌てっぷりに、誰もが大した反応を返すことが出来なかったが、ようやくヒナタと火津は我に返る。

「離せ。遅くなる。先導しろ。ちゃんと状況も説明して」

 端的に述べられた言葉に、いくらかシカマルは落ち着きを取り戻したかのように見えた。もっとも、その顔に浮かぶ険しい表情は何も変わってはいなかったが。

「…分かった」

 何故ここに火津いるのか、とか、一言もなかった。
 チョウジすら目に映らなくなったかのように、あっという間に背を向けると、走り去る。

「ごめんヒナタ。行ってくる」

 火津もまた、それに倣った。風のように、音もなく消え去った。チョウジは少しだけ、目を見開く。火津の力を見たことは皆無に等しい。

「行ってらっしゃい…」

 遅く、ヒナタの言葉がチョウジの耳に届いた。

「……それで、どうしようか」
「え? 勿論行くよ! 折角街に降りてきたんだものっ」

 楽しそうに笑ったヒナタに、チョウジもまた小さく笑い、頭の中にキバとシノがよく行く茶屋を浮かべた。
 いのが、もしここにいたのなら、チョウジが考えていることに気づいただろう。けれど、チョウジの僅かな表情の差異にヒナタは気づかなかった。チョウジもそう、ヒナタの表情がいつもと違ったことに気づかない。

 2人はただ、シカマルと火津の消えた方を気にしながらも、目的の場所へ向かったのだった。













2007年8月4日