絶叫していた、気がする。

 目を開けた瞬間、胃液が逆流して食べ物を押し出す。身体をうつぶせにして、その生理的現象を促した。
 強烈な異臭が、鮮烈に、つい先ほどまで己が体験していたことを思い出させる。あまりの気持ち悪さに、涙がこぼれた。

「生きてたの」

 呼吸すらうまく出来ず、浅い息を吐く。体が重い。
 そして、そんな子供にかけられた言葉は、あまりに無感動な言葉だった。
 涙ににじんだ視界で、何者かの姿が僅かに映る。
 言の葉を紡げずに、あえいだ。

 ―――あれは、なに

 唇だけがむなしく動いて。けれどすぐに、唾液と胃液が交じり合って地にこぼれる。気持ち悪い。喉が痛い。出すものは何もないのに、強烈な異臭に促され、胃液だけがこみ上げる。
 手が、何かを掴んだ。
 掴んだ何かを、必死で握り締めて、吐き気をこらえる。
 涙が止まらない。

「過去」

 子供の聞きたいことを分かったのかどうか、ひどくシンプルな言葉は、必要以上に重かった。
 それだけを、耳に残し、意識が遠のく。

 気持ち悪い…。
 もう、嫌だ…。





 己のぶちまけた食べ物の上に倒れそうになった子供を、片腕一本で支え、ため息をついた。掴まれた腕が痛かった。

「やりすぎた、かな」

 感情に走ってしまったとはいえ、やりすぎた。多少は反省して、子供を布団へ押しこむ。
 良い夢は見られないだろうと確信している。
 散々汚されてしまったが、家具の全てには結界が張られており、実害というものはない。片付けるのは面倒。さてどうしようか、と思案して、適当に術で流すことにする。

「…いや、いっそ燃やしてしまった方が楽か…」

 思い直して印を組み、それと同時に強烈な異臭を放っていた吐しゃ物が青白い炎へと変わる。
 見せたのは、ほんの少しの過去。

 死にたかった。
 死ねなかった。
 未だこうして生き恥を晒している。

 それなのに、この子供は、いとも簡単に死ねるのだ。
 たとえば、そう。
 子供の首に手を這わせ、締め付けてしまう、とか。

 片手で、一回り出来てしまうぐらいに小さい首だった。
 変化していなければ、自分のものもこれくらいしかないのだろう。
 本当に、簡単に殺せる。

 でも、殺さない。

「楽に死なれてたまるか」

 自分は死ねないのに。
 この子供は死ねる。

 だから、絶対に殺さない。

 ―――死なせない。




 目が覚めたとき、自分が嫌になるくらいの汗をかいていることに気付いた。気持ち悪いし、涙がこぼれそのまま固まったのか、目の周りに違和感がある。
 起きる気力もなくて、天井を見上げた。見知らぬ天井に、記憶を辿る。
 蘇った記憶の一部に、全身が震え、こみ上げる嘔吐感を必死にこらえた。
 自分の腕を、身体を、髪を、頭を、触って確認し、安堵した。五体満足、十分いつも通りの身体だ。
 アレはなんだったのか。

 ―――過去。

 不意に、誰かの言葉が蘇った。
 記憶を辿る。
 火影。暗部。闇月。
 黒い髪、白い瞳。あの白い瞳は"白眼"という名の、木の葉でもっとも古い血を組む血継限界だ。ぞっとするような、鈍い、感情のない、どんよりとした瞳。何よりも、そのガラス玉のような白い瞳に映る自分の眼が、同じ、眼をしていた。

 起き上がろうと、腕に力を入れる。うまく力が入らず、無様に崩れた。額を打ち付ける。痛みに、眉を潜めて、全身に全く力が入らない事に気付いた。意思に反して身体は動こうとしない。それにイラついて、うつ伏せになり、ゆっくりと膝を立てる。腕を突っ張ろうとして出来ず、今度は頬を打ち付けた。

 ぎり、と強く歯をかみ合わせて、腕を、伸ばす。収まっていたはずの汗が吹き出し、呼吸が苦しくなる。思いっきり息を吸い込んで、跳ねるように、身を、起こした。その勢いを利用して、何とか立ち上がる。すぐに崩れそうになる身体を、壁にぶつけることで阻止した。
 すぐ近くにあったタンス目掛けて手を伸ばし、身体を預ける。なんとか立ち上がることに成功し、息をつく。

 何故、こんなにも必死に、こんなにも無様に、意味のないことをしているのだろう。

 分からないまま、タンスを支えにして、障子戸を開けた。
 視界に広がったのは、広い中庭。廊下に出た途端、支えをなくし、床の上に崩れ落ちる。腕だけが、むなしく中庭へ落ちた。

 何をしているのだろう。
 何でこんな必死に動いているのだろう。
 何で、こんな意味のないことを。
 何度も、何度も、結果の出ない疑問が浮かんでは消えていく。

 痛いとか、苦しいとか、気持ち悪いとか。
 思う、けれど。

 涙が、こぼれた。
 分からない。何故。
 唇をかんで、腕を引き上げる。起き上がれないまま、地を這うようにして、廊下を進んだ。
 涙が止まらない。
 なんて、惨めで。
 なんて、必死で。

 ―――どうして?

 あんなに死にたかったのに。
 死ぬ気だったのに。
 生きて、生き延びて、無様に床を這っている。

 面倒だと、思ったのに。
 子供らしい演技をするのも、大人に媚びるようにして生きるのも、もう、何かもかもしたくなくなって、全ての思考が面倒になってしまったのに。

 足を止めて、ずっと止めていた息を吐いて、吸う。
 この息を、ずっと止めていれば死ねるのに。

 どうして。

「……たく、なぃ……」

 頭を両腕で抱え込む。涙が止まらなかった。

「……ぁっ。……死にたく……ないっっ」

 涙が止まらなかった。











              ―――生きたい―――











 初めて、そう、願った。

















2007年1月5日