障子が開かれるにつれ、幾つか、息を呑む音が重なった。
完全に解けた白い包帯は細い首元へとゆるく落ちていた。白い着物は顔色を余計に悪く見せ、唇もまたひどく青ざめて見えた。布団の上に座った少女は、誰の目にも、酷くか細く、か弱く、今にも消えてしまいそうに儚かった。
幾つもの視線を浴びる中、少女はしっかりと客人へと向き直り、頭を下げた。
おずおずと頭を上げると、白い頬に赤い花。ほんのりと赤く染まったそれは、既にふっくらとした頬を更に押し上げ、腫れ始めていた。動きにあわせてはらはらと落ちた包帯を、苛立たしげにネジが拾う。
「ひ、ヒナター…っ?!」
うずまきナルトは僅かに眉を上げて、それを観察する。本来なら声を上げて驚かなければならないところなのだろうが、それはいのがしてくれた。
一番後ろから、ネジと、シカマルと、いのと、ヒナタを見る。
ふと、ヒナタと目が合った。
おどおどとした、誰もが知る日向ヒナタの姿。
あの、触れれば切れるような冷たさも、刃のような鋭さも見当たらず、ただ、ガラス玉のような色素の薄い瞳が、ぼんやりと、落ち着きなく彷徨うだけ。
それを、見下ろす。
ただ、ただ、見下ろした。
その表情が、うずまきナルトが普段纏う演技とは限りなく違うことに誰も気付かない。
誰も気付けない。
ヒナタの瞳に、ちらりと炎が燃え上がり、一瞬にして消えたこと。
「ひっ、ヒナターっ。ちょ、ちょっと…顔どうしたのよーーっっ。真っ赤になってるわよーーーっっ」
驚きのあまりヒナタの頬に手を添えて、叫んだいのに、ヒナタは小さく微笑んでみせた。
「あっ、あの、いのちゃん…プリント、ありがとう…。あ、あの、ごめんね。急に休んで…心配、かけちゃって…」
「…風邪、って聞いてたけどよ。元気そうじゃねーか」
赤く腫れた頬や、着物の下からのぞく包帯を気にしながらも、その事に対して直接触れる事は躊躇われた。日向ヒナタ自身がそれを望んではいないように見えたし、身体に巻かれた包帯や、頬の腫れを除けば、日向ヒナタはいつもとさりとて変わりないように見えたから。
「し、シカマル君も、ありがとう…。もう大分熱が下がったの…」
「ふーん、で、その顔はどうしたんだってば?」
無邪気を装って発せられた問いに、一瞬、空気が凍ったようにも思えた。
あまりに直球なナルトの問いかけに、誰もが呆気に取られる。
「かっ、風邪で、ふらふらしちゃって…それで、ぶつけちゃったの…。ごめんね。見苦しくて…」
そっと、自分の頬を押さえて、ヒナタは力なく笑った。けれど、その瞳は一瞬強く輝き、ナルトを睨みつけた。
その視線の強さ。鋭さ。
全てを焼き尽くすような激しさは一瞬で消えうせ、淡く儚い微笑みを浮かべる。
思わず、笑う。
演技でない、うずまきナルトの顔で。
「へー大変だったってば。俺ってばてっきり、誰かに殴られでもしたのかと思ったってばよ」
「………っっ」
息を呑んだのはネジだ。肩がピクリと震え、拳を握る。
ヒナタはただ首を振ってそれを否定した。
続けざまのナルトの発言に、いのとシカマルはただ固まるばかり。しん、と沈黙が重たくなり、2人必死に声を絞り出す。
「そっ、それより、日向の家でけーんだな。かなりびびったぜ」
「そっ、そうでしょー? 私も初めてきた時驚いちゃってー」
やけに空しく響き、消える。
妙な空気をなんとかしようと必死の2人は、だらだらと冷や汗を流した。いつも無駄に馬鹿元気なナルトが妙に静かで、余計にあせっている。
「あ、あーそうそう、ヒナター、キバとシノも今日は休みだったのよー、びっくりよねー、急に3人揃って風邪なんてー」
「…そうなんだ…。う、うん。どうしたのかな、キバ君…シノ君…」
顔色の一つも変えないで…正確には演技の一つも壊さずにヒナタはそう言った。
その演技力にナルトは小さく口笛を吹いた。一人距離を取って立っているので、誰もそれに気付かない。
その代わり、今にも舌打ちしそうな顔で、苦々しくネジはため息をついた。
「それよりヒナター、横になってなくても大丈夫なのー? 幾ら熱が下がったって言ってもー、調子、悪いんじゃないー?」
「ううん…大丈夫。たいしたこと、ないから…」
本当に、たいしたことはないのだ。
そう。熱は、たいしたこと、ない。誰よりもそれをよく知っているのはヒナタ自身だ。
「…ヒナタ様。顔色が良くありません。今は大事を取って寝た方がよろしいのではないのでしょうか?」
「ネジ兄さん…でも、折角来てもらったのに…」
「…ヒアシ様が、話を聞きたいとも言っておられます」
その一言、に、ヒナタは目を見開いた。喉奥から声を絞り出そうとして、失敗する。動揺するように、僅かに震えた両手はすぐに着物の裾に覆い隠され、見開いた瞳は覆われた。
それは一瞬。
本当に、たった一瞬のこと。
「…分かりました」
静かにヒナタは頷く。
ネジもまた、それに頷いて見せた。静かに。ひどく、複雑そうな表情で。
「ヒアシ?」
「今度は何ーってか、なんか空気おかしいんですけどー」
「っつか、なんで見舞いに来ただけでこんなにびくびくしなきゃなんねーんだよ…くそめんどくせー」
3者3様の言葉に、ヒナタは微笑み、ゆっくりとした動作で頭を下げる。
「ごめんね、皆。ありがとう…」
それは、退出を促す言葉。
少女の微笑みはあまりにも儚く見えて、唐突に、いのはヒナタを抱きしめた。
「いっ、いのちゃん…?」
「なんかごめんねー力になれなくってー」
首元に頭をうずめたまま喋るいのに、ヒナタは小さく首を振った。
そんなこと、ない。
いつも気を使わせている。
今だって、服の下から覗く包帯を気にして、決して無理な力を入れようとはしない。
それに。
視線を上げる。
ほんの少し大きく開かれた、青い瞳。
学校では決して見せることのない、人を見下すような、冷酷な瞳。
視線が混じる。普段ならば決して溶け合うことのない視線がゆるりと合わさって、
身体中に包帯を巻いた着物姿の少女は、ふと、落とすように笑った。
日向ヒナタとは似て非なる笑い方。
絵の具が水に溶け落ちるような。ゆるやかな、穏やかな、柔らかな…幸せそうな微笑。
誰も見たことのない少女の表情に、息を呑む音が連なる。
「…いのちゃん、ありがとう」
退出は葬式のごとき静けさだった。
理由などない。
ないのだろう。恐らく。
その理由を誰も表現できないのだから。
だから、理由はない。
ただ、居心地が悪く、ただ、静かなだけ。
「…行くぞ」
ネジの言葉は、白い障子戸を見つめていた面々を躊躇いがちに動かした。未練を残しながらも、ゆっくりとネジの後ろに付く。
ただ一人を除いて。
少年は腕を伸ばす。
障子の真白い紙に触れる。
人差し指の触れた場所から、わずかに紙がたわんだ。
それで、踵を返す。
白い障子戸の向こうは沈黙したまま―――。
2009年1月1日
次で日向家訪問編はおしまい。