屋敷の中に消えていく小さな背中を見ながら、小さなため息が溢れ落ちる。
 答えは返らなかった。
 それは想像通りだったから、そんなに落胆はしない。それでも残念に思う。
 油女シノは、未来を知りたいと思ったことがある。
 未来を日向ヒナタに聞きたいと思ったことがある。

 けれど、予知というものはこの大きな屋敷の下、巨額の金額とともに動くものだと知っていた。
 だから、ただヒナタと親しいというそれだけを理由に予知を頼むのは、なんだか卑怯な気がしてならなかったし、彼女は自分やキバといる時、決して予知という存在の話はしなかった。きっとそれは彼女にとって触れられたくないことなのだろうと思った。

 シノは小学校に入る頃に予知という存在を知っていた。
 父と母に連れられて訪れた日向邸。いくつもいくつも障子を開いた先で、それを見た。

 小さな小さな少女。
 あまりにも大きな部屋の中で、着物に埋もれるように小さな少女がぼんやりと宙を見ていた。焦点の合わない瞳は、何度も何度も空をさ迷う。その瞳はまるで、真っ白に染まっているようにも見えて、瞬間、シノの中をなにか言いようのない感情が通り過ぎていった。それはきっと、怖れだ。人知の及ばぬ存在に対する恐怖。初めての感覚に指先が震えた。
 何かに操られるように、少女は口を開いて何事かを呟いていて、それをシノのいる部屋で何人もの人間が書き留めていた。少女の体にマイクが取り付けてあるのだと、後で知った。

「あの方を、守れ」

 それがおまえの役割だ、と父は言った。

「あの方を守ってね…」

 複雑な表情で、母は言った。
 彼らが本当はそれを心良く思っていなかったことを、その時はまるで知らなかった。

 知らなかったから、それはすんなりとシノの中に落ちて、何の違和感も抵抗もなく収まった。
 だから、日向ヒナタを守るのは彼自身の意思に他ならなくて、それを辛いとか嫌だとか思ったことはなかった。それでいいと思っていたし、特別なことだとも思ってなかった。だからこそ日向ネジが時折ヒナタに向ける視線は理解ならず、犬塚キバが突然態度を変えた意味も分からなかった。

 恐らくは、この現状に誰よりも鈍感でいたのはシノだ。
 確かに年を経るごとに制限が増えて、したいことが出来なくなって、嫌なことも沢山出来て、諦めなければならないことが出来て、それに嫌気が差したこともある。それでも、立場を恨んだことはない。守るということに誇りがあった。それが自分の存在意義だと、そう思っていた。
 気がついたら、やりたいことを諦めることにも慣れていた。

 だから、純粋な意味で彼女を守れなかったことに後悔したのは、シノ一人だけ。
 それに気がついてしまったら、ひどく後悔した。
 ひどい自己嫌悪に襲われて、頭が真っ白になった。

 守れなかった。
 守っていたつもりで何一つ守れなかった。
 ヒナタが何を考えていたのか、何を思っていたのか、そんなこと全く気にしていなかった。
 どうして気が付かなかったのだろう。
 少し考えれば気が付けたはずだというのに、自分の事で手いっぱいで、ヒナタが何も言わないのは不満がないからだと勝手に思い込んで、守っていると思い込んで。

 ―――ただ、後悔だけが、残った。

 謝るシノに、ヒナタは何も言わなかった。
 それは演技だったのか、本当だったのか、今となってはもう分からない。

 ―――大丈夫。
 弱々しい、今にも消えそうな空ろな表情。
 立っていることもままならない身体で、日向ヒナタが口に出したのは、そのただ一つだけの言葉。
 青ざめた唇から溢れおちた、不思議と力強い言葉。

 予知姫は自分の未来を予知できない。
 だとすれば、日向ヒナタは自分に起こったことに何を考えただろうか。何を見て、何を考えて、何を選んだのか。

 油女シノは知らない。
 日向ヒナタの目指すをものを。
 日向ヒナタが求めるものを。

 ただ、思う。

 きっともう、油女シノの役目は終わりなのだと。
 自分の生のすべてだと思い、果たすべきものだと思ってきたその全ては、日向ヒナタが予知姫ではなくなった瞬間に消え失せたのだと。

 認めてしまえば、その喪失感は思った以上に大きかった。
 空虚な思いで空を見上げる。
 冬の空気は肌を刺し、薄闇の中に星は瞬きをはじめていた。

 日向ヒナタという予知姫のために生きてきたから、それ以外の生き方を油女シノは知らないから。

 ―――だからせめて、日向ヒナタが目の前から消えてしまうまで、この生き方を守り続けよう。

 それが残されたシノの、数少ない矜持だった。




 犬塚キバは吐息を漏らしただけだった。
 その反応の薄さと意外さに、ナルトは静かに驚愕する。

「…それで、お前が俺を引きとめた理由は?」
「…ふぅん? ま、いいけどな」

 一人ごちて、ナルトはお茶を口に含む。
 意外なほどに優しい香りと味に、最初は驚いた。お茶、という存在をただの飲み物ではなく嗜好品としてとらえたのは初めてだった。
 そんなことを思い出しながら、ナルトは聞くべきことを口にする。

「今さらいのに告った理由は? つか、節操ねーのな。ヒナタ見張る必要がなくなった瞬間に蔵替えかよ。みっともねーの」
「―――っっ」

 犬塚キバの頭に一気に血が上る。
 瞬間ゆわかし機のように沸騰した感情は、意識するよりも先にナルトに掴みかかる。それは予期されたことだったのか、うずまきナルトは安々と受け止め、身体をひねると同時にキバを組み伏せた。
 正面きって犬塚キバとやりあうことなんてなかったが、うずまきナルトの方がずっと強い。それは、最早才能の差と言うしかないだろう。日向ヒナタも、犬塚キバも、油女シノも、感情が芽生えるよりも先に武道に慣れ親しんでいる。愚直なまでに力をつけ鍛え、伸ばしてきたのだから。

「で、なんで今さら告ったわけよ」
「お前に話す必要ないだろっっ」

 噛みつくような声に、ナルトは笑う。
 至って分かりやすい答えだ。
 底意地悪く笑って、ぎりぎりと関節締め付けながら、ナルトは囁く。キバが思いもよらない言葉を。

「お前の未来は違ったらしいぞ」

 反応は顕著。
 ビクンと痙攣したかのように跳ねたキバの身体は、そのまま硬直する。
 その驚愕に彩られた表情をじっくり観察してから、ナルトはキバを解放してやった。

 嘘だろ?
 そう、犬塚キバは震える唇からこぼす。

 確かに、予知姫の予知は絶対とは限らない。それでも。日向最高の予知姫、日向ヒナタの予知が外れるなど、犬塚キバにとってあり得ないことだった。
 ある種の信仰じみた感情がそこにある。
 日向ヒナタは絶対であり、ぶれることのない存在。
 だからこそ犬塚キバは彼女を守らなければならなかったのだから。





 呆然としたまま立ち去る犬塚キバを、うずまきナルトは部屋のベランダから眺める。
 結局、大したことは聞けなかった。
 予知、ってのはナルトにとって得体の知れない不確かな力だ。
 そもそも未来が確定してる、なんて誰が断言できるのか。
 日向ヒナタ以外の予知姫の予知はあまり正確ではないという。正確でないならそれはもう予知とは言わない。ただの予想。妄想だ。
 結果が伴って初めて予知は成った、と言える筈。
 そして、日向ヒナタの予知は外れる。犬塚キバは日向ヒナタの予知を破った。
 ならば、そんなものにどれだけの価値があると言えようか。

 ―――ブーブーブー…ッ

「………っっ」

 不意に、後ろから携帯のメール受信音が鳴り響き、ナルトはらしくもなくびくついた。そんな自分にムカついて乱暴にきびすをかえす。
 そして―――。
 点滅する画面。小さな画面に表示される文字。
 うずまきナルトの手は止まり―――

「確立は五分ってとこか」

 そう、小さく呟いた。


2011年7月3
シノの答え。