ヒナタはゆっくりと目を開いた。
久しぶりに…いや初めてとも言える、すっきりとした目覚めだった。
(どこ―――?)
いや、それよりも何が起こった?
何故寝ていたのだろう?
状況の把握がつかない。
「気がついたかの?」
「―――っっ!!!!!」
不意に落とされた声に、ヒナタは全てを凍りつかせた。
素早い動きで首をめぐらしてしまう。
普段演じる、日向の落ちこぼれの動きではない。
だが驚愕に演技がついてはいかない。
気付かなかった…。
ヒナタに気付かれることなくそこにいたのは、一人の老人。
日向の長老と同じくらいであろうか?
知っている顔…。
―――火影…だ…。
「…何故…?」
変だ。
何故?
何故―――何も見えない…?
「お主は倒れたのじゃ。覚えてないかの?」
その声は、ヒナタの耳を通り過ぎていくだけで、ヒナタの驚愕を消すことはできなかった。
だって。
見えないのだ。
その心も。
力も。
過去も。
これまでそんな人間はいなかった。
イタチだって、その片鱗は伺えた。
だが…目の前にいる火影は…何も見えない。
どうして?
「どうして何も見えないの…?」
口に出てしまったものを後悔しても、それを回収することはできない。
火影の顔が不審にしかめられる。
「見えない?」
火影がそう言うと共に、ヒナタは天井の一点を見つめる。
…心を決めた。
「うちはイタチ」
「!!!」
火影がはっきりと驚愕の表情をつくり、ヒナタの顔を見る。
そこには既に少女らしい表情がない。
非常に静かで感情が抜け落ちたような表情。
「ありがとう。入れてくれて」
まっすぐに天井を見上げる少女に根負けしたのか、天井からイタチが降りてくる。
「どうも」
「貴方は全てを見なかったことにして、全てをみることを辞めたんだね。どうすればそんなことができるのだろう」
「………お前…人の心が読めるのか?」
「違うよ。見えるだけ。力も。心も。過去も」
「―――!!」
「やっと分かった。貴方も同じ。だから心を塗りつぶすことができた」
そうなのでしょう?と、ヒナタは首をかしげる。
だからイタチはヒナタの事にも気付いたし、ヒナタはイタチの事を見ることができなかった。
火影はその2人を凪いだ瞳で見て、わずかに微笑む。
「それでここにきたのじゃな?」
「そう。でも見えない。火影と呼ばれる貴方の事を私は何一つ見ることができない」
どこか悔しそうに、ヒナタは首を振る。
火影とイタチがそれに苦笑した。
イタチも火影に会った時そう言ったのだから。
不意にイタチは思い出して、ヒナタに問いかける
「お前、さっき怯えてただろう。あれはなんだ?」
「貴方が…あまりにも壊れてるから…あんなの初めて見たし…」
「壊れてる…ねぇ。んで今は怖くないのか?」
「今はなんとなく分かったから。自分が理解できることは怖くないもの。それに私も壊れてる」
だから怖くはないのだと分かった。
あのときの恐怖は、未知の存在に対するもの。
そして、自分と同じものを不意に見てしまったためのもの。
きっと、ヒナタと同じ力を持つ人間がいたのなら、ヒナタがイタチに見たものと全く同じものを見つけることができただろう。
「イタチ、お前がヒナタの面倒を見なさい。日向のほうには言っておこう」
「オレが?…と、いうか何をすれば?」
「ふむ…ヒナタは何がしたくてここに来たのかの?」
「私?…私はこの力をちゃんとコントロールしたいの。火影様はそんな術を知っているかと思って…」
「ふむ。それもイタチが何とかするじゃろう。イタチがここに来たのもそれが目的だったしの」
こともなげに言う火影に、ヒナタは安堵する。
そして、この空間が彼女にとってとても心地よいことを自覚する。
見えない、というものはこんなにも気持ちを楽にするのか…と。
「それからの…日向の跡目は落ちこぼれと聞いておったのだが…どうやら違ったみたいだの」
「…落ちこぼれですよ。私は」
まっすぐに火影を見上げ、少女は言った。
その視線は強く、迷いも苦しみもない。
「日向なんてただの飾り。白眼なんていらない。私は日向を引きずり落とす。だから日向の落ちこぼれ」
日向など滅びればいい。
数少ない愛する者たちの他は、殺してしまえばいい。
そう語る少女の瞳はひどく静かなもの。
火影は小さく首を振って目を伏せる。
こんなに小さな少女が…どれだけの闇を見てきたのかと。
すでにその身を絶望へと宿しているのかと…。
火影は何も言わなかった。
ただ…その頭をゆっくりと撫でた。
それに、ヒナタは身体を震わせる。
ヒナタは驚いたように火影を見て…不意にこみ上げてくるものを止めることができなかった。
するりと流れ出たものに驚く。
それはヒナタが己を殺してから初めての涙。
「ど…うして…?」
止まらない。
何故泣いているのだろう。
どうして止まってはくれないのだろう。
己の思うままにいかない、強い感情に戸惑う。
「泣いたほうがいい」
そう言った…壊れているはずの青年の瞳はひどく優しくて…見える彼の何もかもが気にならなくなった。
「…っっ!!!」
ヒナタは泣いた。
前に泣いたのは初めて人を殺した時であったろうか…。
それもすでに1年前のこと。
今では泣くことなんてない。本来の感情が外に出ることもない。
彼女の感情は全て内側に。外に出ている感情はまがい物ばかり。
けれど…今は…。
本物の感情があふれ出して、とどまることがなかった。
「ぁあっ!!うぁあぁぁああああああああっっっっ!!!!!!」
暖かかった。
火影の置いた手のぬくもりが、体全体にいきわたるようだった。
うちはイタチの暖かい目が、全てを受け入れてくれているようだった。
そうしてヒナタは救われたのだ。
イタチと学ぶ日々は楽しかった。
まずは力を封印し、その呪印式を学んだ。
後はひたすら技を競った。
体術に磨きをかけ、術を覚え、武器具を使い、忍として成長をした。
「イタチ。イタチはいつ火影様に会ったの?」
「俺か?確か俺は5歳だな。アカデミーに入学する前にこの力を封印したくてな。火影様に会いに来た」
「どうやって?」
「お前と一緒さ。正面から堂々と。俺は力を隠さなかったからな。面白がって火影はあってくれた」
「それで言ったんだ?」
「その通り。"どうして何も見えない…?"ってな」
2人で顔を見合わせて笑う。
暖かい。
まるでこれまでが嘘のように暖かく、幸せな日々だった。
そして―――
「そう言えば、私と同じくらいの年の子が、ここにいるって本当?」
「…ん。まぁ本当さ」
珍しくもイタチは少しだけ迷うようにして、ヒナタに答えた。
その時はもう初めて彼らに会ってから半年が経っていた。
同じ屋敷にいながらして、その存在を見たことがないなんてありえないようなことだった。
「でも会ったことないよ?」
「会わないほうがいいんだ」
「…どうして?」
こんな風にイタチが言うことはひどく珍しかった。
戸惑うように首を傾げる。
「…多分。…多分だけどね。ヒナタには刺激が強いと思うんだ」
「…?何それ?」
「ヒナタが会った事がないのはあの子がアカデミーに通っているからだと思うよ?」
「アカデミーに?もう6歳なの?」
「あの子はヒナタと同じ歳だよ。けれど、あの子には親がいない。それが寂しくないように火影様がアカデミーに入れたんだ。火影様も忙しいからね。もう2年目になるかな。たまに俺が呼ばれて相手をしていたよ」
「会っちゃ…だめ?」
「ん。正直分からない。俺は会わない方がいいと思う。ヒナタの力は俺よりも強いから」
「でも封印してるから関係ないよ?」
そう、イタチと同じように力に枷をした。
今はもう人の心は見えない。
その力も何もかも見えない。
なのにどうして力の強さが関係するのだろうか?
きょとんとしているヒナタにイタチが軟らかに笑う。
初め、力だけを求めてここに来た時とはまるで別人の様。
まるで表情がなく強張っていた顔には、今では多数の感情が浮かぶし、時には声を出して笑う。
もっともそれはイタチと火影の前に限定されてのことだったが。
それでも、うれしいのだ。
「なんだ?友達が欲しいのか?」
「―――!!そうじゃない!」
慌てたように首を振る少女にイタチは首を傾げる。
「そうか、ヒナタは俺じゃあ不満なんだな…」
心なしか悲しそうなその声に、ヒナタは一瞬呆気に取られて、けれども反射のようにイタチにしがみついた。
「イタチの馬鹿」
「おいおい。木の葉の天才に向かってそれはないだろ?」
「馬鹿だよ。イタチは本当に馬鹿」
「ひどいな」
イタチの身体に顔をうずめるヒナタの頭を優しく撫ぜる。
話を逸らすことには成功したが、どうやらそれ以上に彼女の古傷を削ってしまったようだ。
そう、大事な人間に見放されるという恐怖を―――。
「ヒナタの髪は黒いな」
「…日向は皆黒いよ」
「俺の髪も黒いな」
「うちはも皆黒いよ」
「…ひーなーた。兄弟になろうか?」
「!?」
ずっと顔を強く押し付けていた少女が、不思議そうに顔を上げる。
イタチが身体を折り曲げて、そのまま座った。
ヒナタがイタチの上に乗るような格好になる。
「髪の色も一緒。うちははもともと日向。力の種類も一緒。…そっくりだろ?だから兄弟になろう?今日から俺はお前の兄貴だ」
「………いい…の…?」
おずおずと、その答えを恐れるようにして、少女は聞く。
イタチは笑った。実の弟にも見せたことのないような笑みで。
「勿論」
それなら少女の答えは決まっている―――。
「うん。イタチ兄さん―――」
2005年3月7日
イタチ兄さんとヒナタの初めての出会い。