火影が、死んだ。
彼はもういない。
だから、火影のかけた全ての呪縛は…全部解けた。
「何の用ですか?」
「…だいぶ機嫌が悪そうじゃのう?」
「…何の用ですか?と聞いたのですが?いい加減もうろくしたようですね」
「………噂を聞いたのじゃがな」
ヒナタの取り付く島もない様子に、軽く嘆息し、火影は話を切り出す。
「どういった?」
「お前さんと…ナルトの噂じゃ」
「………誰ですか?」
それを火影に吹き込んだのは。と、ヒナタは絶対零度の視線を火影へ注ぐ。
「言うわけなかろう?とにかくじゃ。お主ナルトを振ったそうじゃな?」
「………ええ。だから何か?」
視線どころか部屋の空気まで、冷たく凍り付いていく。
火影は動じない。
いい加減慣れてはきたのだ。
「何故じゃ?」
「何故―――?理由なんて…貴方が一番良く知っているでしょう?」
「お前の口から聞きたいのじゃ」
飄々と発せられた火影の言葉に、ヒナタの周囲にチャクラが漏れ始める。
「嫌です。と言ったら?」
「ほう?そうじゃのう。葉月の正体が噂になるやも知れぬのう?」
「―――っの…!…くそじじぃ…」
「ほっほっほ。聞こえんのぉ?」
「………!!」
ヒナタのチャクラが目に見えるほどに高まり、刺すような視線を火影に向けられるが、火影は動じない。
口元だけのその笑みをじっと見て、ヒナタは大きく息をついた。
それと同時にチャクラが収縮し、霧散する。
仕方なく口を開いた。
「私は…ナルト君を染めたくない…私のようにはなって欲しくない…」
「お主の正体を知ったからといって、ナルトが変わるわけでもなかろう?」
「変わらないかもしれない。けれど、変わってしまう可能性が高いのも事実」
「だが、本当にいいのか」
「兄さんにも言われました。本当にそれでいいのか。ヒナタはそれで満足できるのか―――と」
ヒナタは火影から目を逸らさない。
強く強く、けれどもどこか追い詰められた獣のように睨みつける。
「満足は―――出来ないかもしれない…けれど…私はナルト君が好き。だから怖い。ただ臆病なだけかもしれない。兄さんの言うとおりなのかもしれない」
『いつか、それで満足出来なくなるよ。ヒナタはそのときどうするの?』
そう、諭してくれた兄はいない。
けれども彼の言葉はいつも自分の中で引っかかっていた。
今は、まだ大丈夫。
心がどれだけ彼を求めても、理性がそれを止めることが出来る。
『いつか、いつかが来てしまったら、どうする?』
今聞いたばかりのように、イタチの言葉が次々とよみがえってくる。
「けれど…それでも…っっ!」
私はこの今の心地よい空間を崩したくはない―――。
下忍の任務をこなして、暗部として活動して、優しいチームメイトに囲まれて…好きな人と少しの距離を保って。それは、ひどく危ういバランスの上に立つ空間ではあるけど、今、幸せだと思えるのだ。
ようやく手に入れた安らぎなのだ。
イタチがいなくなって、ぽっかりとあいた喪失感。
少しずつ、少しずつ、満たされて、彼を手に入れなくてもこんなにも充実しているではないか。
「私は―――」
だから、彼の思いに答えることなんて出来ない―――。
ナルトの幸せは7班の上にあると信じていた。
イルカがいて、カカシがいて、サスケとサクラがいて、確かに彼は満たされていた。
強烈な闇は光に変わり、闇は隅に追いやられた。
そんな、彼の幸せな光の中に、ぽつんと染みを落としてしまったのは…どうして、だか…自分、だった。
何よりもそれを望み、けれども何よりも拒んでいたのに。
こんなにも嬉しくてこんなにも切ない。
でも、まだ何とかなる。
大丈夫。
自分はそんなに弱くはない。
『自分を、誤魔化してしまったら、ヒナタの負けだよ』
「―――兄さん…」
思わず口にだす。
唇が震え、拳を握り締める。
どうして貴方は居なくなってしまったのですか…?
どうして…私を置いていってしまったのですか…?
「…にい…さん」
会いたい。
『―――ヒナタは、強い子だ』
聞こえた声に、はっとした。
自然、俯いていた視線を上げれば、そこにはヒナタを案じる火影の視線。
居るわけがない。
居るわけがない。
けれども過去に確かに聞いたことのある彼の言葉だ。
唇を噛んで、目に力を入れる。
これまで"殻"を纏ってきたのだ。
こんなことでひびを入れてどうする。
深呼吸し、イタチの言葉を思い出す。
『お前は強いよ。俺の妹だ。俺が、責任を持つ』
何言ってんだか。
くすり、と笑って、火影を睨んだ。
「もう、いいでしょう?」
強いまなざしを取り戻して、ヒナタは冷たい空気を纏った。
本当に己を取り戻した風なヒナタを見て、火影は安堵した。
最近のヒナタは不安定だ。
何で崩れるか分からない。
原因が分かっているだけに不安なのだ。
「そう、じゃな」
安心した。
未だ彼女がイタチを兄と慕っていることに。
彼女の心が常を思い出したことに。
「では、私はこれで」
黒髪を翻して、ヒナタは踵を返す。
「ああ。そうだ火影様…そこに何を隠しているのですか?」
扉だけを見ていたヒナタは気づかなかったが、小さく火影の肩が揺れる。
「ふむ…やはり気付いたか。お前さんの目にも見えんか?」
「よく言いますね…私が力を解放することなどないことを知っているくせに…」
「ま、新しい結界術を手に入れたのでな。実験の意味を込めての試験じゃ。お前の目から見てどうじゃ」
「別に。それなりなんじゃないですか」
それだけ言って、ヒナタは殻を纏い、扉を押した。
ヒナタの殻は、完璧に落ちこぼれの少女を演じる。
いつまでも、いつまでも。
誰にも知られることなく。