『てまり』



















 もう消えた真白い髪を探して、翡翠の瞳がさ迷う。
 決して言葉にならなかった声。
 震えて言葉にもならないような声で。



「―――火津っっ!!!!」



 叫んだ。
 もう姿を消した人を求めて。
 胸の前で両手を合わせた女性は、叫んだきり、動かない。
 今にも崩れ落ちそうなくらい震えながら、呆然とした瞳が火津の消えた先を見ていた。

 それは、自分たちよりも年上で、頼りになる強い人だと思った、その人だとは思えない…思えないほどに、弱弱しくて、痛ましげで、儚くて。
 ほんの少しでも触れれば、何もかも崩れてしまいそうに見えた。
 あまりにも痛々しいその様子に、どうすればいいのか、何を言えばいいのか、チョウジもいのも顔を合わせる。

 2人は、テマリとさほど親しくはない。
 シカマルがテマリを好きなことを知っているから応援はしているし、仲良くしようとは思っているが、所詮表層だけだ。
 テマリは本心を見せるような真似はしないから。
 本音で付き合えない相手と親しくなることは難しい。

 最も、他国の忍であるから、本音なんてそうそう簡単に見せられるはずがないのだけど。

「…チョウジ、いの」
「うん。何…?」
「わりーけど、先に行っててくんねぇ? 俺、後から行くわ」
「……大丈夫ー?」
「ああ」

 黒髪の親友は、一度も振り返らなかった。
 その目はただ1人の女性に注がれていて。

 それが、少しだけ…寂しかった。

「…じゃあ先、行くね」
「…お先にー」

 2人の声に、少しだけシカマルは笑って、頷いてみせた。
 いつものけだるそうな、面倒くさそうな、ゆるりとした、動作で。





「テマリ」

 チョウジといのが充分に離れたのを確認して、シカマルは呼びかける。
 前の見えていない女に。
 周りなんてまるで気にしていない女に。
 消えた人間のことしか、目に入っていない女に。

 いつからだろう。
 いつからその瞳に映りたいと願うようになったのか。
 いつから女の視線を独占したいと願ったのか。
 いつから女の全てを手に入れたいと願うのか。

 手の中に閉じ込めて、声を封じ込めて、自分以外の人間のことなど考えられないように。

 親友でもあり仲間でもある幼馴染の2人の幸せを願った。
 友人だと思う火影の幸せを願った。

 それらとは、全く違う。
 好きなのに、幸せを願うだけじゃ終わらない。
 そんな感情、昔は知らなかった。
 いつの間にこんな激しい感情を抱いたのだろう。

「テマリ」

 もう一度呼ぶ。
 女は振り返らない。
 いつもそう。

 彼女はいつも遠くを見ていて。
 すぐ隣のシカマルを見ない。
 それに気付いた時だっただろうか?
 その視線を手に入れたいと思ったのは。

「テマリ」

 3度目の呼びかけ。
 テマリは振り返らない。

 彼女の弱さに気付いた時、それを支えたいと思った。
 崩れないように、抱きとめて、守りたいと思った。

 彼女の顔に浮かぶ憂いを、哀しい瞳を、見たくないと思った。
 それは自分以外の人間を想う時の瞳だ。

 彼女の笑顔が好きだと思った。
 本当に時々、零れるように笑う小さな微笑が見たいと思った。

 悲しい顔なんて見たくない。
 泣きそうな顔なんて見たくない。

 そう思うのに、どうすれば彼女を笑わせることができるのか、わからない。

「テマリ」

 4度目。
 ぼんやりとした翡翠の瞳に、シカマルは映らない。

 火津が言っていることの意味は分からなかった。
 恋人とか、恋人じゃないとか、結局どうなのかもさっぱり分からなかった。
 どうしてここでヒナタが出てくるのか分からない。
 テマリが何から逃げているのかも分からない。

 ただ、一瞬だけ、火津はシカマルを見た。
 普段絶対に向けられることのないその白い瞳は、思っていたよりもずっと穏やかで…どうしてだろう、散々嫌いで、ムカついて、敵視してて…それなのに、あの瞬間に、火津を嫌えなくなった。
 自分自身でもわけが分からない。
 あの瞳に、視線に、頑張れよ、って、そう言われた気がした。
 あの穏やかな白い瞳に、背中を押された気がした。

 初めて見たとさえ思う小さな笑顔は、信じられると思った。
 顔の前で両手を合わせて頭を軽く下げた、その姿。

 思えば、あの時も、テマリのことをシカマルに任せようとしていた。
 それは一体どういうことなのか。

「テマリ」

 これで5度目。
 何度でも、呼ぼうと思う。
 いつか彼女が振り向くというのなら。

 シカマルには何も分からない。
 分からないから、何もできない。

 無意識に唇を噛む。
 テマリは遠い。
 いつも、いつも、隣にいるように見えて、シカマルの手の届かないところにいる。

 空に浮かぶ雲のように、つかめそうで、つかめない。
 手を伸ばしても、届かない。

 それが、歯がゆくて、どうしようもなくもどかしくて。



 ―――手を、伸ばす。



 手を掴まれて、真っ白だった脳に周囲の状況が送り込まれる。
 塞がっていた視界に、黒い瞳が映る。

 気だるそうで、面倒臭そうで、いかにもやる気がなさそうで、妙に爺くさくて、そんな人間の、瞳。
 奈良、シカマル。

 ―――……が、可哀想だろ
 ―――……も、もう逃げんなってば

 ぐるぐると、言葉が頭の中を回る。
 考えちゃ、いけない。
 考えたら、もう、逃げれない。

 もう、立てない。

 さ迷う視線を、逃がさないというようにシカマルが追いかける。
 まっすぐに向けられた黒い瞳が、何故か怖かった。
 足元に急に穴が開いたよう。不安定で落ち着かなくて、怖くて、恐ろしくて。

 掴まれた手の平だけが、確かだった。

「お前が、何に悩んでんのか、俺にはわかんねーよ。わかんねーから、話せよ。めんどくせーけど、聞くからよ」

 シカマルにとって掴んだ手のひらは小さく頼りなくて。
 テマリにとって掴まれた手のひらは温かくて大きくて。

 俯いた先に映る手のひらは、なんだか馬鹿みたいに平和そうだった。

 足元はぐらぐらするのに、頭の中は警鐘が鳴り響いているのに、瞳に映るそこだけは平和で。

「テマリ」

 呼ばれ、頭を上げる。
 ずっと呼ばれていた、それはテマリの耳には入っていなかったけど。
 ようやく示されたテマリの反応に、シカマルは笑った。

 遠かった瞳が、シカマルを捉える。

「俺は、お前の傍にいっから。っつか、俺にはそれくれーしか出来ねーけどよ、お前がそーいう顔してんのは嫌なんだよ」

 ―――シ…マルが、可哀想だろ

 何故か、火津の言葉が何度も何度も繰り返されて。
 くらくらする視界の中で、どうしようもなくまっすぐな瞳に、貫かれた。





 ―――テマリが好きだよ。多分、ずっと前から。後これからずっと先もだ。





 交差する、蒼い瞳と黒い瞳。
 全然違うのに、似ても似つかないのに。
 言葉だって一つも似通っていないのに。

 どうして…同じ瞳でテマリを見るのだろう。


 テマリの手を握るシカマルの手に、力が入る。
 急に、恐ろしくなった。


「―――っっ」


 テマリが思いっきり手を引いて、けれどもそれをシカマルは許さなかった。
 強く、強く、拘束された手に、テマリの頭の中が真っ白になる。

 シカマルが、口を開く。

 ―――聞いてはいけない!

 反射的に、そう思った。
 何を言おうとしているのか、何故か分かるような気がしたから。
 分かりたくもないことが、分かってしまう気がしたから。

 だから、必死で耳を塞ごうとしたのに。

 強く握った手をシカマルは離してくれなくて、いつの間にか目の前にあった黒い瞳は視線を逸らす事さえ許してはくれなくて。

「………めんどくせーけど、好きだよ、テマリ」

 めんどくさいなら、その言葉を撤回して欲しい。
 やけにはっきりと聞こえた男の言葉に、引き裂かれるような思いで、そう、思った。








「だから、1人でどっか行くなよ…。俺を見ろよテマリ」








 それは、どうしてだか…とても、甘い、響き。
 それは、優しくて、温かくて、柔らかくて、全身くるんでしまいそうな、幸せな感覚で。

 ただ、心臓に巻きついた茨の棘が、その声に従う事を必死に拒絶していた。
 






 しん、と落ちた沈黙に、シカマルはいたたまれなく、右足に乗せていた体重を左足に移動する。
 テマリのまん丸に見開いた瞳はあまりにも辛そうで、心臓が握りつぶされるような苦しみを覚える。

 笑わせるすべは分からない。
 今の彼女に必要なのは慰めなのか、激励なのか。
 そのどちらも、何も分かっていないシカマルにはできないことだ。

 奈良シカマルという人間にできたのは、何かから逃げ続けているテマリに向き合う事。
 それだけだった。

 けれど、自分の想いの一欠けらでも届いたのなら。
 テマリがシカマルに少しでも振り向いたというのなら。
 それなら、ここで向き合う事を止めてはいけない。
 止めてしまったら、多分そこでお終い。テマリは完全に手の届かないところに行ってしまうのだろう。
 何の確証もないのに、ただ勝手に、そう思う。

 だから、絶対に視線はそらさない。
 いたたまれないけど、居心地は悪いし、バクバクと心臓はうるさいし、嫌な感じに背を汗がつたうけど、テマリを逃がさないように、そう、念じて。


 テマリは逸らされる事のないシカマルの視線に、いたたまれなくなって俯いた。
 それでも、視線はまっすぐにテマリを見ているのだろうと、分かった。
 唇を噛む。

 前も、そうだった。
 シカマルは見たくもないものを見せ付ける。
 逃げていた事を目の前に突きつける。
 戻りたくもない現実に、引きずり出す。

 そのたびにさりげなく避けて、逃げて、拒絶して。
 自分を守って、閉じこもって、頑丈な鍵をかけて、見えないように、見えないように、決して気付かないように、隠してしまったのに。

 4年、経った。

 4年しか、経ってない。


 時が起てば起つほど心の中にぽっかりと開いた穴は広がって、ただただ苦しくて、辛くて…。
 何度も吐いた。
 何度も泣いた。
 干からびるような毎日。
 得るもののない毎日。
 ただただ過ぎていく毎日。

 自暴自棄になって、
 何もかもが嫌になって、

 何もかもがダメになって、

 何もかも、何もかも、何もかも捨てて、

 未来も、家族も、友人も、全てを捨てて、

 全部、止めて、

 逃げて、

 逃げて、

 逃げて、

 でも、


 シカマルは逃げなかったから。

 何度拒絶しても、逃げても、避けても、逃げなかったから。

 だから、もう、テマリは逃げられなかった。
 





 嫌になるほどリアルな世界で、テマリは口を開いた。















2008年5月5日