『ひとつのけっちゃく』 火津は、走っていた。 ただ、ただ、夢中で走っていた。 何もかもを置いて、まっすぐに、一目散に、ただ、走っていた。 白い髪が風邪に強く煽られる。 頬に、額に、汗で纏わりついた。 走りながら、服を掴む。丁度、心臓の前。 くしゃりと掴んだ服の下からは、絶え間なく激しい音が鳴り響いていた。 ドクドクドクドク―――。 いつもよりずっと早い心臓の鼓動。 血液がガンガン循環して、全身隅々まで走り回ってる。 口の中は緊張でからからに張り付いて、水が欲しいと叫んでいる。 ただただ大人しく、目立たぬよう、密やかに、静かに、力も抑えて、"うずまきナルト"に似た部分を消して、言動にも注意を払って。 14の時からずっと、そうしてきた。 感情を押さえつけて、物事から一歩引いて。 4年もすればそれは生活の一部になって。 何が本当で何が本当でないのか、それが曖昧になる程度には自然に嘘を纏えるようになって。 だから、嘘だった自分を引っぺがして、本当の自分を晒すのは、なんだかとにかく緊張した。 テマリの顔が凍りつくのは予想していたけど…シカマルが、横にいたから。少しでもテマリの支えになろうと、そんな風にして立っていたから。 深く息を吸う。 足を止めて、空を仰いでみる。奈良シカマルがよくそうするように。 夜はもう白み始めていた。 任務に出たのは深夜で、今はもう朝と呼べる時刻。 血に塗れた火津を朝の太陽は優しく照らす。温かな光で包み込むように。 まるで白く温かな乳白色の瞳と同じように。 何故だか涙が出そうになった。 苦しいわけじゃなくて、哀しいわけでもなくて、嬉しいわけでもなくて。 それでも何故か、涙がこぼれた。 4年の間に溜まり続けた、自分でも知らないような奥底にあったへどろのようなものが、光にゆるゆると溶けて、零れていくようだった。 眩しい世界で白い光の中で、白い髪の青年は小さく笑う。 涙をこぼしたまま、それでも笑った。 「…前に、進もう」 思い出す黒い髪の人。 今になって、任務に出る時が何度も何度も浮かぶ。 あの時は、自分の事で精一杯で、他まで頭が回らなくて、どうしたらいいのか、自分が何をすればいいのか、そんな事しか浮かばなくて………。 だから、走る。 前に、前に、足を動かして。 木の葉の里への門を越えて。 その中央へ。 今はただ、会いたかった。 誰よりも、何よりも、一秒でも早く。 自然と足は速まる。 演技とか、力を抑える事とか、もうそんなの関係ない。 誰に見られてもいい。 誰に気付かれても構わない。 本当は、いけないけど。 本当はダメなんだけど。 そんなの分かってるけど。 ―――今日だけ許してください。 誰に対してか、そう心の中で呟いて。 呼吸を、落ち着ける。 目の前に、火影室へと続く扉。 木の葉に入ってからの記憶は殆んどない。 どうやってここまで来たのか、覚えてない。 人に会った気もする。会わなかった気もする。 気がついたら、ここまで来ていて。 それだけが、重要。 息を、吸う。 深く深く。全てを飲み込んでしまうように。瞳を瞑って、全身に酸素が届くように。頭の隅々まで行き渡らして、少しはマシな頭になれよと願う。 意味分かんないけど。 意味とか、そんなんどうでも良くて。 息を吐く。 頭の中の余計な考え全部吐き出してしまうように。 吐ききって、よし、と顔を上げる。 扉の向こう側に気配を感じる。 彼女はもう気付いているだろう。 自分がここまで来ていることに。 来て、ここにいるということに。 伺うような、警戒するような、そんな気配が伝わってくるから。 だから、ノックはしない。 ゆっくりと、手を伸ばす。 ドアノブに触れるとひやりと冷たかった。少しだけ躊躇うように指先が震えて、それから先は、妙に長く感じた。 握り締めて、まわす。まわして、押す。 扉を開けるというそれだけの行為。 それだけの行為にどうしてこんなに時間が必要なのだろう。 扉を開ける。 火影が常に被る笠は机の上にあった。 火影が着る黒衣も机の上にあった。 火影であるがための衣装を置いたその机の前に、1人の少女が立っていた。 艶やかに潤う長い黒髪は背に揺れている。 優しくも冷たくも輝く乳白色の、宝石のような白い、瞳。 紙のように白く、どこまでも滑らかでやわらかな肌。 細い眉が不安定に歪んでいるように見えた。 赤く色づいた唇が不自然に持ち上がっているようだった。 どうしてだろう。 そんな、とても不安定な顔をしているのに、そんな顔は好きじゃないのに…どうしてだか、すごく、すごく、嬉しかった。 身体中から湧き上がる感情の波に溺れそうになりながら、火津は、笑った。 もうずっと、浮かべていなかった顔で。 泣きそうになりながら、笑った。 「………ただいま」 感極まった震えの混じる声に、少しだけ少女の肩が揺れる。 歪んだ眉が下に下がって、どうにも情けない気弱な顔になる。 ぴくぴくと、目元が震えて、それを抑えるために変な力が入る。 今にも泣きだしてしまいそうな表情で、それを、必死にこらえていた。 堪えて。 本当に、堪えて。 …堪えて、いるのに。 火津が、何もかもが吹っ切れたような、迷いのない笑顔を見せるから。 泣きそうな顔で、けれど、もう忘れてしまった満面の、大輪の笑顔を咲かせるから。 優しくて、温かくて、何でもかんでも受け止めてしまいそうな、そんな顔をするから。 だから、もう、ヒナタはどうしようもなかった。 どうしようもなく、感情が溢れて、零れて。 「―――っっ!!! おかえり…、なさい…っっ」 嗚咽の混じる声。 歓喜に満ちた、ひどく柔らかい、その声。 少年は笑って。 少女も笑って。 背中を押されたかのように同時に床を蹴った。 すれ違い続けた心を埋めるように。 |