『げんじつ』 なんてことのない任務が終わって、3日が経った。 事後処理も報告書も書き終えて提出して、その時にはもう火影は当たり前のように火影をしていて、その隣に当たり前のように火津がいた。 何も、なかったみたいに。 その光景を見て、何故か、安堵してしまったのを覚えている。 「チョウジー」 「…うん。何?」 ころりといのは床に転がる。 柔らかいベッドの上よりも、彼女はひやりと冷たく固い木の感触を好む。 持っていた巻物を置いて、その頬に手を伸ばした。 触れると柔らかくて、温かい。 「…やっぱり、何でもないわー」 いのが手を伸ばす。 チョウジの首筋に回された手は冷たかった。 「…うん」 分からない事が多くて。 出来ない事も多くて。 情けない事も多くて。 やりきれないことも多くて。 なんだかやり残した事があるような、やらないといけない事があるような気がして…けれど、何をすればいいのかすら分からなくて。 もどかしかった。 何が、と言われても分からないのに。 ただもどかしくて、ひどく、息苦しかった。 チョウジか罪を問われる事はなかった。 本来なら死を持って償うか、記憶の隠蔽か、ともかくなんらかの処理が成されても良かったはずが、恐ろしいほどに、誰もそのことに触れない。 火影も、火津も、先代の火影も、何かと煩い先代火影の相談役も、上層部も。 それがある意味とてつもなく不気味で、気持ちが悪い。 いつでも何かが起こり得る不明瞭さが、確実にチョウジの負担となる。 それこそが、今この現状こそが、火影がチョウジに課した罰なのだと、まだ彼らは気付かない。 失うことの出来ない存在だからこそ、あえて、火影は放置する事を選んだ。 記憶の隠蔽は好奇心の強いチョウジに意味は成さない。好奇心から何度でも彼は繰り返すだろう。 だから今は何も言わない。何も情報を与えない。 普段なら状況を探ろうとするチョウジでも、今は、動けない。 自身の身が本当に危険であるのだと、弁えているから。 何も出来ない、何も分からない、何も知らない、それがチョウジにとってどれだけ辛い事か。 やり切れず漏れたため息は、ただただ重かった。 砂色の髪が風に揺れる。 普段4つに括られ、存在を主張するそれは、ただ背に流れるだけ。 テマリ、と呼ばれる、砂の忍。 前風影の娘であり、現風影の姉である、砂の里の上忍。 上忍であり…暗部であり―――…風影であった、忍。 風の国で、砂の里で、公にされず、存在は秘され、それでも確かに里の長として、忍を率いた時期があった。 前風影と、現風影と、砂暗殺特殊部隊部隊長と、後ほんの少しの人間しか知らない事実。 それは、まるで木の葉と同じような、環境。 その事実の全てを否定するように、彼女は忍装束を着てはいなかった。 レースをあしらったキャミソールに足首までも覆うふんわりとしたシフォンスカート。細い足首を包むのは華奢なピンヒール。 当然のように、額宛ても存在しない。 今の彼女を知り合いが見たとしても、殆んどの人間が気付かないだろう。 あまりにも、彼女が普段人に与える印象と異なるがゆえに。 テマリは格好に似合わぬ足裁きで、次々と人の間をすり抜け、追い抜く。 人の群れで泳ぐ魚のように、砂の色は木の葉をすり抜ける。 そんな格好をしているのに、彼女が迷いのない足取りで向かったのは、木の葉隠れの忍の頂点、5代目火影のいる場所に他ならなかった。 さすがに何の用だ、と訝しげな視線を多く向けられるが、テマリはまるで頓着しない。 その視線の中にはテマリを知るものもあったが、誰一人として話しかけることはなかった。テマリであると、気付かないから。 あんまり堂々としている所為か、誰もその歩みを止めようとはしない。 明らかにおかしい状況なのに、誰もそれに気付かない。 テマリはまっすぐに火影室の前に立つ。 勢いよく手を伸ばして、ドアノブを握った瞬間、心の中で迷いが生まれた。 「………意気地が、ないな。私は」 己の弱さを笑い、むしろそれを口にすることで勇気を奮い起こす。 迷いを断ち切るように、一気にドアノブをまわした。 僅かに驚いた、4つの眼。 久しぶりに見た現実は、本当に、本当に、ただ、現実としてそこに在った。 そんな、当たり前の、事。 当たり前の事を、否定し続けてきた。 後ろ手に扉を閉めて、息を吸う。 長く伸びた黒い髪と、心配そうな白い眼差し。 色素の抜け落ちた白い髪と、緊張に強張った白い眼差し。 これが、現実。 逃げ続けた…逃げるために、捨てた、もの。 息を吐いて、目を閉じる。 逃げるな、と何度も何度も頭の中で念じる。 何のためにここに来たのか思い出せ。 今まで自分がしてきた事を思い出せ。 どれだけ彼らを傷つけたのか思い出せ。 目を開く。 口を開く。 呆然として、何も言えずにいる大事な友人たちに。 「けじめを、つけたい」 「……テマリ?」 訝しげな白の眼差しに向き合う。 逃げるな。 逃げるな。 ―――どれだけ似ていても、違うのだから。 「ヒナタ」 悲しい、瞳。 悲しくて、苦しくて、逃げたいのに逃げられなくて、まっすぐ前を向いて、しっかりと立って、辛いのに、テマリの視線を受け止めてくれる、優しい瞳。 そして、その、隣。 真っ白な髪と、真っ白な瞳。 どうして彼の髪と瞳がそうなってしまったのか、テマリは知っている。 ―――彼が色を喪ったその時、テマリはそこにいたのだから。 「……ナルト」 息を呑む音が連なった。 「私は、愛していたよ。心から」 もう間違えないから。 もう逃げないから。 だから。 「本当に、命捨てても良いと思っていたよ。何も捨てても良いほどに、愛していたよ」 認めよう。 事実を。 この現実を。 ―――テマリが好きだよ。多分、ずっと前から。後これからずっと先もだ。 私も、好きだよ。 そう、頭の中で応える。 それだけは違いないから。 本当に、本当に。 全部を捨ててしまうほどに愛していたから。 「けれど、もう、いないんだな。お前はいても…火津は…いない」 それが、現実だ。 逃げ続けた、現実だ。 そう、火津は、死んだ。 もう、とっくの昔に死んでしまった。 九尾を連れて、死んで、消えて。 消えて、それで、テマリは…残された。 うずいた胸を押さえつける。 この苦しみは何てことない。 自分の所為で、沢山の人を傷つけた。 だから、それに比べたら、なんてことはない。 決着を、つけないとならないんだ。 未練がましくて、馬鹿で、本当に弱くて、意気地がなくて、逃げてばかりの自分自身に。 そう、テマリは前を向く。 「火津の場所へ、連れて行って欲しい」 凛と響いた声はあまりにも真剣で、痛々しくて。 けれど、慕い続けた大事な人の瞳は、真っ直ぐに澄んでいたから。 長い、長い沈黙の後、この里で最高の力を持つ人物はゆるりと頷いた。 |