『さよなら、だいじなひと』 空を見ていた。 相変わらずぼけっとした表情で、やる気のなさがありありとでた顔で。 ぼんやりと空を見ていたから、後ろに現れた気配にまるで気がつかない。 「…告白は、ちゃんとしたのー?」 妙に力のないのんびりとした声に、奈良シカマルは過剰なまでに反応して見せた。 びくり、と肩を揺らして、ぶんぶんと頭を振る。 声の主を探しているのだろう。 幾ら相手が気配を消すのが得意だとしても、声の場所を特定できないなんてことは上忍とか暗部とか、それ以前の問題。忍として気が抜けすぎだ。勿論それは警戒をする必要がない相手だった事も関係している。 「…いの」 「なーによ。辛気臭い顔してー」 「お前こそ、ひでー顔してんぞ」 そう言われて、いのの顔が変に歪んだ。 いつもバッチリと決めているメイクはおざなりだし、長い髪は背に流れるがまま。何よりも濃い焦燥がそのまま顔に出ていた。 「だって、なーんか、気分がのらないのよー。チョウジもそんな感じだしーあんたはあんたでそんなだしー」 「…そうか」 少しの、沈黙。 雲を幾つか見送って、シカマルは口を開いた。 「女って、わからねー」 「何よそれー」 いのの声には答えずに雲を見送る。 ―――今は応えられない。 女はそう静かに言った。 笑うわけでもなく泣くわけでもなく激情するわけでもなく、ただ淡々と、そう言葉を重ねた。 ―――私は器用じゃないから、だから…はっきりと言う。 久しぶりに、まっすぐな瞳をみたと思った。 はっきりと分かる、本当の、生の感情だと直感した。 ―――私は多分一生同じヤツを愛してる。 小さく笑った彼女は、ただただ悲しそうに見えた。 「私、行くわー」 いのが言う言葉は遠く、ぼんやりとした頭の中でシカマルは頷く。 どうにも手応えというものがなく、いのはなんとなく消化不良な気持ちで息をつく。 ぬかに釘。暖簾に腕押し。 幼馴染たちは揃いも揃ってそんな感じ。 ついでに言うのなら、いの自身他から見ればそんな感じなのだろう。 自分でもはっきりと分かるほどに周りへの注意が疎か、何に対してもぼんやりとした感じ。始終そうなのだから重症だ。 どうにか気分を変えようと思ってシカマルに会いに来たが、相手がこの調子では全く持って意味を成さなかった。 同期の仲間や同僚と話そうにも、上忍は殆んど任務に出かけているし、里に残っている知り合いでそんなにも仲が良い友人もいない。 「…あいつに、会いにいこうかなー」 木の葉に残る、風変わりな友人の下に。 火津はきょとんと瞳を瞬かせてから、思いっきり、吹き出す。 3人が一体どういう誤解をしたのか、正しく理解したから。 『や、まだ消えないけど? ってか、返事貰ってないし?』 必死の形相だった3人はあっさりとしたその言葉に、一斉に体勢を崩した。 悪戯っ子の目がキラキラと光って、実に愉快そうに笑う。 「あーもうお前って奴はっっ! 紛らわしいってばよ!」 『あっ、そうそう、いのにもお礼言っといて欲しいわけよ。俺が外のこと知れたのっていのが喋ったからだし』 「? なんで、いのちゃんが?」 『霊感があるっぽい? 漂ってなんかぶつぶつ言ってたら聞こえたみたいでさー』 「ぶつぶつって…それで、火津のことは?」 『話してねーよ? いのは俺のこと大昔に死んだ幽霊か森の精霊か、なんかそんな感じに思ってるみてーだし、あーあと、いの達って火津のこと嫌いなんだもんな』 しみじみと語る火津に、それは、とナルトが言葉を詰まらせる。 うずまき火津という存在を消したくなかったから、火津の代わりにその夢を叶えたかったから。 だからナルトは火津になろうとした。 "うずまきナルト"が生きてきた全てを消してでも。 『大体、何で白髪に白目なんだよ。俺がすっげー爺みたいじゃん。いのに初めて聞いたときは耳疑ったっての』 「おまっ、俺だって好きでこうなったんじゃないってば!!」 「なんか、九尾が消えたら、ナルトの中に封印されていたチャクラも心も完全に抜けて、そうしたら、こうなってたの」 「まぁ…お陰でナルトだって気付かれなかったけど? でもさ、俺だってどーせ変装するならもっとカッコいい色にしたかったってば」 つまらなそうにもらして、ため息。 ほんの少しだけ、ナルトの顔に苦いものが混じる。 「俺の顔が、うずまきナルトだから気にくわねーんだよ。あいつらは。…死んだナルトの変わりかよ、みたいな?」 「…でも、もう、それも終わりにしようね。ナルト…」 それは、火津の約束の返事。 ヒナタは笑って、ナルトに左手を差し出す。 "火津"だから、この手を取ることは出来なかった。 何よりも、火津がいなくなった時から、自分達は少しおかしくなって。 それを修正するよりも前にテマリがおかしくなって。 ナルトはヒナタの手を見て、ずっと黙ったままのテマリを見上げる。 いつもと違う服で、いつもと違う髪形で、いつもと違う空気で。 惑う翡翠の瞳は緩やかに火津を捉える。 火津はまっすぐにそれを見返した。 変わらない少年と変わってしまった女。 「もう、お前はいないんだな」 『うん。もう、いない』 火津は手を伸ばしてテマリの手を握る。 …握ることは出来なくて、悲しくすり抜けるだけ。 どんなに手を伸ばしても、どんなに望んでも、もう触れることも出来ない。 そんな分かりきったことから逃げて、逃げて、逃げて。 もう何年経ったのだろう。 震える拳を握り締める。 その小さな手に触りたい。 幼いあの頃のように無邪気に手を繋いで駆け回りたい。 抱きしめて、取っ組み合って、時には本気で喧嘩して。 どうしても望んでしまう、幼い日の再現。 曖昧になった閉じ込めた記憶の中に、火津の死んだ日のことがある。 ようやくそれを思い出せた。 ようやくそれを思い出す勇気を持てた。 きっかけは確かにあの黒い髪の男。 「お前がいなくなって、上層部を黙らせて、我愛羅を風影にした」 『うん。テマリはちゃんと夢をかなえたんだ』 「もう一つはかなわなかったぞ」 『それは謝るしかないかな』 くくっと笑った火津にテマリもまた笑った。 2人とも笑っているのに、とても悲しい光景だった。 「…すぐには無理だけど…いつか、いつかお前がいないことに慣れる日が来るのなら…。その時は…」 『………うん。それでいいよ。でも約束。絶対幸せになること』 「ああ。約束する。絶対幸せになってみせる。」 お互い指を出して、小指を絡める。 その感触は全くないけど、片方の指が変にめりこんでしまっていたけど。 それでも、 「指きりげんまん」 『嘘ついたら針千本のーます』 「指切った」 指をするりと離して、静かに、静かに、テマリは涙を流した。 その手の温もりも大きさもはっきりと覚えているのに。 零れ落ちる涙が、伸ばした火津の手の平をそのまますり落ちていく。 本当は、と。 地に落ちた雫を見ながら思う。 この手で、もう一度だけ震える身体を抱きしめたかった。 けれどそれは絶対に叶うことのない想い。 曖昧に笑って、テマリを抱きしめる。 火津よりもテマリの方がずっと大きくなったから、もしも実体があったとしても、余計に悲しくなるのだろう。 火津の時間はもう止まってしまっているから。 それは火津の死を思い知らせるから。 だから、これでいい。 そう、火津は自分に言い聞かせる。 今火津がここにいて、もう一度会えたという事が奇跡なのだから。 テマリを包み込む火津を見て、ナルトの顔が無意識に歪む。 もうどこにも火津はいない。 「ナルト」 「…うん」 差し出された手を、もうナルトは拒まなかった。 自分よりもずっと小さな手の平を握りしめる。 「もう、一人で無茶するなってば…」 「…うん。ごめんね」 自分よりもずっと大きな手の平を握り締めながら、ヒナタは右手をその上に重ねる。もうほとんど無意識にチャクラを這わせることが出来る。本来の右腕を使っていた頃よりはずっと鈍いけれど、それでもその精度は最初に比べたら確実でずっと早い。 どれだけの時間がそこにかかったのか。 「でもね、ナルト」 ヒナタは微笑む。 「貴方がいたから、私はここまで来れたんだよ。ずっと一緒に居てくれたから、火影を投げ出さなかったんだよ。貴方が私を助けてくれたから、頑張れたんだよ」 昔の約束だけじゃ絶対に頑張れなかった。 本当は何度も逃げたくなった。 ナルトやテマリ、キバやシノ、紅、いの、シカマル、チョウジ、サスケ、サクラ、ネジ、ハナビ…。 誰ともすれ違って、目の前にいるのに壁があるみたいで、ひどく遠くて。 毎日が同じことの繰り返し。 変わらない毎日。うんざりする山積みの書類を片付けて、報告書を見て、それで、任務に送り出して。 責任とか、重圧とか、そういうのじゃなくて。 ただ、もう、なんだか急に世界が色あせて何もかもに興味が無くなって、 もういいんじゃないか、って何度も思って。 そのたびに、ナルトのことを思い出す。 いろんな陰口を知っている。 火津としてのナルトはあまりにもうずまきナルトに似ていたし、表に出てくるまでの資料が一切存在しないから。 憶測が憶測を呼び、好意的なものから悪意的なものまで噂はどこまでも広がった。 けれど彼は、それら全てを受け入れ、ただただ火津を演じ続けた。 うずまきナルトとはまるで違う人間を演じ続けた。本当に、何もかもを捨てて。 彼は何も言わなかったけど、その態度で、火津であることを貫き通した。自分たちの決めた事を守り、頑固なまでに徹底し続けた。 だから、ヒナタだけが逃げ出すなんて、出来なかった。 ただ真摯に…愚直なまでに火津であろうとしたその姿に、ヒナタは支えられてきた。 「だからね、ナルト。一緒に頑張ろう。ナルトは火津だけど、それを受け入れてくれる人は沢山いるはずだから」 「…結構、今更だけどな」 「今更だから、だよ。今ならもう落ち着いて"うずまきナルト"のことを聞いてくれると思う」 それに、私も今ならきっと落ち着いて話せる。 そう笑う少女に、決まり悪そうにナルトは頷いた。 握り締めた小さな手の平。 大事な、大事な、小さな手の平。 自分よりも大切な人が、自分の目の前にいる。 一緒に生きようと言ってくれている。 それは、なんて、幸せな事なのだろう。 それは、なんて尊い幸福なのだろう。 「火津」 『何』 「……ありがと、だってば」 照れくさそうに視線を逸らす。 『…気持ち悪』 こちらもまた同じように視線を逸らして。 その様子に、テマリもヒナタも笑った。 幸せになれよ。 それが彼の最後の言葉。 光はあっというまに消えた。 別れを惜しむ余韻すら与えずに、まるで逃げ出すかのような素早さで…。 けれどそれは、どうしてだかとても火津らしく思えたから、残された3人はただ笑った。 深い深い森の中ビーズの音は涼やかに鳴っていた。 風もないのに、軽やかに、優しく、3人の未来を祝福するかのように。 |