『たいじ』















 静かに、静かに、扉を開ける。
 火影にしか入室が許可されていない小部屋。
 それはまさに、情報の宝庫。
 罠を幾つかはずし、音を立てず、静かに、静かに。

 扉を開け、一歩そこに入り込んだ瞬間、ぞわり、と鳥肌が立った。
 何が起こったわけでもない。
 けれど、ただ、全身が粟立って―――



   にぃ、と笑った。



 額を伝う汗をそのままに。
 小さくつばを飲む。
 禁忌たるものを侵す、その、背徳感に、興奮を隠せない。
 指先が震えるのを感じ、どこの素人だ、と自嘲する。


 けれど、それでも視線はよどみなく部屋の中を観察し、いくつかの書物を引き抜く。目的に関係ありそうな、もの。

 ―――九尾に、関する…こと。

 丁寧に、けれどすばやく、事務処理で散々鍛えた能力を持って、次々と書類をめくる。初代、2代目のものより、3代目4代目のもの。九尾に関する呪印を行った者たち。誰よりも九尾に関わった人間たち。

 いくつかの書物をめくって、わずかに、息を呑んだ。
 ぞくり、と背筋に緊張が走り、唇が震える。

(―――まさか)

 これは。





 火津は、ヒナタに会いたかった。
 理由なんて知らない。
 ただ、ただ、会いたかった。

 ひどく疲れていた。
 体は鉛のように重かった。

 ごめん
 ごめん
 ごめん

 繰り返す。
 繰り返す。
 いつまでもいつまでも。

 2度と還りはしない過去を悔い続ける。
 いつまでもいつまでも。

「ヒナタ…?」

 火影の姿を探して、さまよう。
 誰かが火津の姿を見ていれば、驚愕せずにはいられなかっただろう。いつもは冷静に物事を見据え、常に静かな光を宿している瞳が、明らかな焦燥に彩られていることに。青ざめた表情はひどくつらそうで、見ている方が苦しくなる。
 火津という青年が、初めて見せる濃い憔悴の色。
 火影の付き人としての火津とはまったく違う、表情。

 火影の前でしか見せることのなかった、一人の青年としての、姿。


 足早に、火津は火影を探す。
 まだ帰ってきていないのだろうか。
 まだ外に出ているのだろうか。

 長い黒髪。
 真白の瞳。
 長い睫。
 白い滑らかな肌。
 小さな体。
 時折見せる無邪気な顔。
 悪戯な顔。
 まじめな顔。
 たくらんでいる顔。
 泣きそうな顔。

 泣いている、顔。

 火影室の、奥。
 普段は決して開かれていないその場所。

「ヒナタ…?」

 結界が、消えている。
 厳重に張り巡らせていた、結界。
 それは、3代目の時代から変えてはいなかったが、幾つかの禁術を張り巡らせた、かなり強固なもの。
 そこに入れるものはヒナタしかいないはず…なのだが。

 なぜか。

「………」

 気配を消す。自身から一切の音を切り除き、すべてを無に近づけ、意識を集中させる。
 求めていた人物がそこにいるはずだ。
 探していた人物がそこにいるはずだ。
 警戒など必要がないはずだ。

 ―――それでも。

 火津の身体は警戒を緩めない。
 火津は自分自身の直感をそれなりに信用している。いやな予感とか、そういうものはよく当たる方だ。

 そして。



「―――秋道チョウジ様。こちらは、火影さま以外立ち入り禁止な筈ですが?」

 冷たい声に、チョウジの背は凍った。
 一心不乱に本を捲っていた手が止まる。
 舌打ちをしたい気持ちをこらえて、チョウジは荒立つ感情を押さえつける。

 小部屋の入り口に立っていたのは、真っ白な長い髪をした、一人の男。何があったのか、蒼白な表情をしている。感情の読みにくい色素を失った瞳が、チョウジをにらみつける。
 ひどく、怒りをたたえた瞳だった。
 ひどく、焦りを含んだ瞳だった。
 余裕が、まるでない形相だった。

 こんなときですら、チョウジはそのことに驚愕する。
 火津という青年は、初めて会ったそのときから存在自体がひどく希薄だった。色のない髪も、瞳も、彼の存在を際立たせてもおかしくはないはずなのに、それ以上に彼の気配は希薄で、ともすればそこにいることを見過ごしてしまいそうな、ほど。
 ただ、火影と共にいるときだけ、時折笑うこと。
 感情そのものを火影にだけは漏らすこと。

 それが、チョウジにとっての火津のすべて。
 胡散臭いと思わざるを得ない、火津のすべて。

「……うん。そうだね」

 言い訳は不可能だ。
 この部屋の入り口は一箇所。火津の立っている場所のみ。
 逃げ場はない。
 どう、するか。

 手に持っていた書物をそろそろと後ろへ回し、慎重に構える。
 この部屋に火影の許可なく、無断で入り込んだとなれば、どんな処罰が持っているだろうか。どんな処分を受けるだろうか。
 おとなしく捕まるべきか。
 それとも。

「…無理ですよ。秋道様。いいえ、暗部第2小隊 礼花の柯茅…。貴方では私は倒せません」
「……そう、かな?」

 書物を最後まで読み解きたかった。そう思いながらも、慎重にそれを戻す。
 その書物に火津が目を留め、わずかに、瞳を細めた。もともと剣呑だった表情が、さらに険しさを帯びる。その、威圧感。力の大きさ。

 初めて対峙する火津という忍。

 火津は部屋の中に結界を張る。この貴重な空間には傷一つつけたくない。
 残忍な気持ちが火津を支配していた。
 どろどろと身体中からあふれ出す怒りが、チョウジに対して向けられる。
 本来彼に向かうはずではなかったその怒りが、焦燥が、憎悪が、火津の中で収束を待たずして、ほとばしる。

 はたして何年振りであろうか。これだけの感情を人に対して向けるのは。

「貴方は…いつも、知りたがってましたね。…私の…俺の、ことを、俺の過去を、俺と火影の関係を………。何か分かったかよ。ああ? あんたは、まったく最低な奴だよ…。人の過去掘り返して、隠したいこと暴こうとして揺さぶりかけて」

 先程までとは違う、純粋な怒気が沸き起こる。この好奇心の塊には何を言っても無駄だと思ってきたが、嫌なもんは嫌だ。
 火影に迷惑をかけたくなかった。
 火影と彼らの間にどんな小さな亀裂も入れたくなかった。
 それは、火影にとって信頼できる人物が本当に少ないから。
 彼らは数少ない火影の信用できる仲間だから。

 けれど。

「ムカつくんだよ」

 吐き捨てて、抜くことのほとんどなかった刀を握る。
 付き人になってから彼らの前で戦うことはなかったが、刀は飾りではない。特別上忍の名も飾りではない。
 彼らの知らないところで任務もしていた。九尾に関すること。他の尾獣に関すること。暁のこと。

 負ける気なんて、一つもない。
 チョウジだけの話ではないが、礼花は、3人揃ってこそ価値があるのだ。
 彼ら一人一人でもそこいらの暗部が束になっても勝てない程度の実力はあるだろうけど、それでも、彼らの能力はどちらかといえば情報収集、情報工作、後方支援に特化しており、戦闘能力に秀でているわけではない。3人揃ったとき、初めて彼らは最強と言う名を冠する。絶妙なチームワークこそが、彼らの強みだ。
 対して、火津は戦闘面に特化した忍だ。情報収集等の繊細な任務にはあまり向いていないが、単純な力比べになれば右に出るものはほとんどいないだろう。

「…火津ってさ、いっつも黙ってるから何考えてるのかと思ったけど…結構いろいろ考えてるんだね。…僕ね、火津は胡散臭くて、信用できなくて、感情が読めなくて、行動も読めなくて、そのくせヒナタに一番信用されているし、あげく、その顔が顔だし、すごい嫌い」 

 冷や汗を背に流しながらも、にこりとチョウジは言ってのけた。

「ムカつくよね。なんか」
「こっちの台詞だ」

 狭い小部屋の中から火影室へ下がる。火津の誘いにチョウジはのった。
 窓の鍵を開けて、隙を見せないままに火影室から一足飛びで外に出る。

 ここまで来たら、逃げる気なんて最早どこにもない。屋根の上で、対峙する。
 広範囲の結界を張り、刀を握る。

 火津の目は本気だった。
 肌を突き刺す殺意は、いつもの感情の見えない視線よりマシだ。
 むき出しの殺意も、怒りも、全てこちらも同じ。

 火津は刀を抜く。
 手入れを怠ったことのない刃が、日の光の下で輝いた。

 大げさな術を使おうとは、しなかった。
 刀を持った2人は結界の中で走り出す。

 一直線に。
 同時に振り下ろされた刃は、チョウジよりも火津の方が早かった。鍔迫り合いになり、拮抗した刃が火花を散らす。
 一瞬で間合いを取り、計る。

 笑った。
 ほぼ、同時に。

「最初っからこうしておくべきだったかもな!」
「同感だよ、火津!」

 叫んで、刀を走らせる。
 力はチョウジの方が上だが、速さでは圧倒的に火津に分がある。

 懐に入り込み、急所を狙う。
 すがすがしいまでに急所を狙った動きは、それゆえに読みやすい。
 何度も刀と刀を打ちつけ、距離をとる。

 その時だった。



「やめなさいっっ!!!!!!!」

 結界が崩壊する。外部からの介入によってあっけなくそれは崩れ、火津とチョウジの間に立つ木の葉最高権力者の姿。

「…ヒナタ」
「………」

 長い黒髪が緩やかに風に乗る。ひどく無防備な姿で、彼女は首を振った。

「何を、しているの? 誰が、それを許可したの?」

 ひどく硬い声。こわばった声。
 火津はただ、頭を下げた。
 チョウジもまた、膝を突く。
 言い訳は出来ない。

「…処分は、如何様にも」
「何、を」
「…禁忌を犯しました。入ってはならぬ場所に入りました。処罰は覚悟の上です」
「………話は後で聞きます。2人とも各自自宅で待機を」

 深いため息のあと、火影は搾り出すようにそう言った。
 チョウジも火津も硬い表情は崩さず、頷く。

「承知しました」
「了解」

 消える、2つの姿。
 そのまま逃げるとは思わない。
 彼らのことは誰よりも信頼している。

「ひ、なたー」
「何、いの」
「どう、なるの…。チョウジ、どうなっちゃうのー」

 不安を隠さないいのの声に、ヒナタは振り返らない。
 火影邸の屋根の上で大規模な結界が張られたことはすぐに気付いた。
 それがチョウジのものだということも。
 だから、キバとシノと話していたのを切り上げて、急いで駆けつけたのだ。
 そして、途方にくれた顔のいのを見つけた。

 彼女もまたチョウジの結界に気付き、ここまで駆けつけたのだろう。
 ただ、彼女にその結界は破れなかった。何が起こっているのかもわからず、ただ、やきもきして待っているしかなかった。結界が破れることを、待つしかなかった。

 何故、チョウジと火津が戦っていたのか。

「………」

 ―――胃が痛いな。

 そう、深いため息をつき、頭を抱えた。
 全く嫌になる。

 火津が、こんな風になるなんて、と思わずにはいられない。
 あれだけ感情を押さえ込んで、不利になるようなことをしなかった彼が。

 テマリと何があったのだろうか…。

「…いの、貴女も家に帰って。チョウジのところに行ってもいいよ」

 露骨にこの場に居て欲しくないという言葉に、いのは1も2もなく頷いた。彼女もすぐにチョウジの元に駆けつけたかったに違いない。

「ごめんねヒナタ!」

 走り出しながら叫んだいのの言葉に、ヒナタは小さく息をついた。
 どっと疲れた。
 考えることは多いから、一人でまとめたい。
 そんなことを思いながら、少しだけ笑った。

「………なんに対して、かな」

 分かるはずもない疑問は、虚しく散っただけだった。






















2007年10月7日