『ちかい』 書類を取り出す。 そこにくっきりと押された火影印。 火影室の主である少女は、たった一人きりで、身体に似合わぬ大きさの机に肘をつく。椅子も華奢な少女にたいしてあまりに大きい。 その重責を、重いと思ったことはあまりない。 支えてくれる人がいた。 力を貸してくれる人がいた。 ふと、気配を感じて、ヒナタは立ち上がる。 気配は幼い頃より馴染み深いもので、警戒する相手ではない。 だから力を抜いて、ヒナタは気配の方向へ向かって一礼した。 「………ヒナタよ、何をそう背負いこんどるのじゃ…、おぬしは、いつも何もかも抱え込みすぎじゃぞい? 少しはその荷をわけんかい」 「…別に、そんなつもりはないんですけどね。…なんでかな、上手くいかないんですよ」 「お前は自分の考えを人に出さんからじゃ。…遅かれ早かれこうなることは目に見えておったわい」 「………」 「……おぬしは、あやつらを信用するつもりで、正体をさらしたんじゃなかったかの?」 「…信用、して、ますよ…」 「なら、何故あやつらのことを教えんかったのじゃ」 ぴしゃりと打ち付けるような低い声に、ヒナタは唇をかんだ。 信用、しているつもりだった。 けれど、確かに、彼らに話さなかったこともある。ただ、それは、どう説明すれば良いのか分からないというだけじゃない。どこまで説明すれば良いのか分からないというだけじゃない。 「話したく…なかったんです…。彼らだけじゃない、キバ君たちにも、カカシ先生たちにも…誰にも話したくなかった。……もう、あんなに辛い思いは…したくなかった」 大事な大事な記憶。 大切に大切に胸の奥にしまったそれを引きずり出すことは、嫌な記憶も辛い記憶も全て引きずり出すことであり、更にはその生々しい記憶を他にさらすということ。 それをする勇気を、ヒナタは持てなかった。 忙しい火影業務を理由に、引き伸ばして、引き伸ばして、そうこうしているうちにテマリが変化してきて…それどどころじゃない、忙しい、そんな言い訳をして、逃げ続けた。 「それに、嫌だった。大事な、大事な記憶。だから言いたくなかった…」 何も知らない人たちに、自分が話した言葉だけで知った気分になって話されるのは嫌だった。大事な記憶が汚されるような気すら、して。 そんな、子供っぽい理由。 火影が火影である以上、感情よりも理性を追求すべきなのは当然のことなのに、それが出来なかった。 もし、火影が全てを話していたとしたら、今回のようなことは起こらなかっただろう。 ただ、それ以外の問題は確実に起こったであろうと簡単に推測がつく。 どちらが正しいなんて答え、どこにも存在しないのだ。 俯いたヒナタの頭に、皺くちゃの手がのせられた。 皺くちゃで、がりがりに細くて、肉なんてついていないような手のひら。なのに、ひどく、暖かい。 はるか昔にヒナタを救った手の平。 この手を楽にしたくて、何か恩を報いたくて、幼い頃、そればかり考えて生きてきた。 ゆるやかに、ゆるやかに、髪の上を往復する手の平。 暖かくて、優しくて…昔みたいに、すがり付いて泣けたら、どんなに救われるだろうか…。勿論それを彼は拒みはしないだろう。細くやせ細った身体で優しく抱きしめてくれるだろう。 けれど、今、甘えてしまったら、もう何も出来なくなってしまいそうで。 全てを彼に任せてしまいそうで。 必死に涙をこらえ、頭上の細い手首を押さえる。少し身を引いて、手首から両手へ場所を移動し、胸の高さまで下ろした。目の前に、心配そうに見つめる皺に埋もれた瞳。 「全部…決着をつけようと思うの。…辛いのは私じゃなくて皆の方。だから…大丈夫です。火津を、見ていてあげてください。きっと、心配してるから」 「………おぬしは、ほんに背負い込むのぅ」 「火影、ですから」 「そうか…。そうじゃの…。お主が決めたのなら仕方ないのぅ」 引き抜かれた手を思わず引き寄せそうになって、それを押さえつける。多分彼はその動きに気付いただろうが、何も言わずに頷いた。 「わしが、お主を火影に選んだのじゃ。お主だけが火影の責を負っておるのではない。それを、忘れるでないぞぃ」 皺くちゃの顔を更に皺くちゃにして、彼は笑った。 ヒナタにとって何よりも安心できる温かな笑顔で。 彼の気配が完全に消えた後も、ヒナタは動かなかった。 ただ、ただ、立ち尽くして。 その頬に、こらえたはずの涙が零れていた。 …いつまでも。 いつまでも。 謹慎処分になっていた火津とチョウジが呼び出されたのは、あの日から丁度2週間後のことだった。 そして、火影の呼び出しを受けていたのは彼らだけではなかった。 「………」 「………っっ」 火影室に落ちる沈黙はただただ重く。 いつもなら騒がしいほどに喋ってばかりの人間たちが、恐ろしいほどの静寂を紡ぎだす。 互いの顔を見るなり驚愕の表情を隠そうともせず、気まずい沈黙に口を閉ざし、視線をそらしあう。 謹慎を受けていた火津とチョウジ。 砂の国から合同任務の要請を受けたテマリ。 火津とチョウジが抜けたが故に、必然的に激務となっていたシカマルといのの2人。 部屋に入った瞬間、緊迫した空気が張りつめ、一触即発という言葉をいのは頭に浮かべた。絡まった感情はいのにとって嫌なものばかり。 殺気だった空気に表面上ばかりは平静を装った火津とチョウジ。そしてテマリ。 けれども、よく知るものが見れば彼らがひどく動揺しているのはすぐに分かる事だった。 5人の集合を待って、火影はようやく口を開いた。 いつも里の忍に向けているような、優しげな、しかし意思の強さを感じさせるまっすぐな瞳も、快く思わない人間を一蹴する時の無慈悲な満面の笑顔も、何事かをたくらみ実行するときの悪戯な子供のような無邪気な表情も、慈悲深い、全ての恨み辛みを忘れ、心が洗われる笑みだと名高い笑顔も…そのどれでもない表情で。 集まった忍があまり見ないタイプの表情。 感情そのものが抜け落ちてしまったような、無機質な瞳と、ピクリとも動かないその表情。 「任務だ」 ただ一言。 任務書が5枚、それぞれの手元に投げつけられる。 ただの紙でしかないそれらは、鋭い刃のように宙を舞い、それぞれの手のひらに納まった。その紙に書かれた内容にはそれぞれ言いたい事もあったが、火影の放つ圧倒的な威圧感を前に、誰もが口を閉ざし、僅かな逡巡の間を置いて頷いた。 ……頷くしかなかった。 それしか火影は求めていないのだと、その場の誰もが察していた。 あまりに重い沈黙と空気に、誰もが退出のきっかけを失い、その場から動かない。 やがて、火影は小さなため息を共に立ち上がる。 「火津、テマリ、チョウジ、いの、シカマル…この任務が終わるまでに、個々の感情に決着をつけろ。私はこれ以上人間関係で任務の組み合わせを考えたくはない」 細められた真白い瞳はまっすぐで、ひどく強く、清廉な輝きを放つのに、どこか悲しそうで。 言葉が終わるのと同時に火影は彼らに背を向けた。 もう言う事は何もないというように。 それが全員の退出の合図へとなった。 刀が2本、刺さっていた。 立派な大樹の根元、禁忌の森と呼ばれる森の奥深く。深い森の要塞に覆われ、誰も来ることのないような、静寂に満ちた空間。 磨き上げられたばかりのような澄んだ刀身は、森の情景を写していた。交差した2本の刀はただそこに在り続ける。 ―――ちりん 風が吹いて、刀の鍔についた飾り紐とビーズが澄んだ音をたてた。 その音に誘われるように、刀身に写る一人の人影。 長く伸びた黒髪を風になびかせ、真珠のような真白い瞳で大樹を見上げる。 ―――ちりん 人影を包み込むようなやわらかなビーズの音楽に、かの者は視線を刀へと移した。左手で、刀身へと手を伸ばす。 刀身に写った人影は、幾度か瞬きを繰り返して、力なく笑って見せた。 火影という名にふさわしくない、あまりに情けない、あまりに弱弱しい笑顔。 「…ここで、誓ったよね。私は」 刀身にあわせて屈んでいた身体を伸ばし、立ち上がる。すぅ、と伸びた背筋。まっすぐに前を見つめる強い視線。不敵に笑んだ唇。 「ここで、誓ったんだ。私は」 もう一度、違う心持ちで発する言葉。 ただ弱弱しかった言葉ではない。 きっぱりとした覚悟を感じさせる強い言葉。 長い黒髪が森の中ではためく。 簡易な忍装束に身を包んだ一人の少女。 火影としての衣装を全て脱ぎ捨てた少女は、右手を大樹に掲げた。 「この右腕に、ナルトに、火津に、私は誓ったんだ」 小さな少女を照らすようにして木漏れ日は降り注ぎ、ビーズは澄んだ音を立てた。 「だから、見ていて。私が私であり続けるために。私が火影であり続けるために。私に出来ることを、私はする」 まっすぐな白い瞳は大樹を見つめ、大樹はヒナタを見下ろす。 ヒナタの言葉に頷くように、風に吹かれ枝を揺らす。葉という葉を舞い散る中で、ビーズがちりりと音を立てた。 「私は火影だ。里一番の忍者であり、国を守り、支え、忍を導き、民を導く存在。…だから、弱音なんて吐いている場合じゃないよね」 仕事は幾らでもあった。 里の中で随一の力を持つ者達を一つの任務に集中させたのだ。今の火影に、心より信頼できる片腕とも呼べる存在も、手足となりて働く存在もいない。 ただ一人だ。 それは里の守りが手薄になっていることと同義ではあったが、ヒナタは気にしなかった。 「木の葉舞うところに火は燃ゆる。火の影は里を照らし、また木の葉は芽吹く」 その言葉をヒナタに教えた人物は、誰よりも強かった。火影として最高の人物だった。彼を目標として生きてきた。 彼も、自分も、忍が数人いないだけで崩れるような生半端な里を築いてはいない。 がむしゃらに火影であろうとした。 それでも火影ではなかった。 感情を優先させた。任務に私情を挟んだ。誰よりも私情を挟んでいたくせに、彼らには自分勝手な言葉を投げつけた。 少しずつずれていった大事な者たちの軋轢…。その原因の一端は、確かにヒナタにある。 …それは彼が夢見た火影の姿ではない。 誰よりも強い里一番の忍者。 国を守り、導き、里を代表する英雄。 幼い日の夢の塊。 「ここからもう一度、私は始める。私は火影だ」 誓いの言葉は決して大きな声ではなかったが、森の中に響き渡った。 その瞳に迷いはない。 その言葉に戸惑いはない。 ただまっすぐに、ただ強く、確固たる力を持って、言葉は空に散る。 ヒナタは右腕を下ろし、左手を見つめる。 だらりと下がった右腕を左手で支えるように持ち上げ、強く、握り締める。 「今度は3人でここに来る。過去を惜しむためじゃない。過去と決別するために」 その言葉を最後に、ヒナタは大樹に背を向けた。 誰よりも強く、里中の尊敬を集め、慈悲深い微笑で慕われる5代目火影の姿がそこにあった。 少女の背を後押しするようにビーズが鳴っていた。 優しく。優しく…。 |